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  <title>semi@aoao　青井ゼミ</title>
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  <modified>2006-03-09T01:13:08Z</modified>
  <tagline>人間環境大学  地域・都市計画論ゼミ（青井ゼミ）のゼミ日誌です。　</tagline>
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  <copyright>Copyright (c) 2006, aoao</copyright>
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    <title>通りのバス停・傾いたベンチ・街を語る小物　・・・ゼミ旅行（20060226-28）その３</title>
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    <modified>2006-03-09T01:13:08Z</modified>
    <issued>2006-03-09T10:13:08+09:00</issued>
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    <created>2006-03-09T01:13:08Z</created>
    <summary type="text/plain">ゼミ旅行２日目は築地市場の食堂で昼食をとり、築地本願寺に挨拶をしてから表参道ヒルズへ。しかし、「ヒルズ」はがっかりした。古典的百貨店の吹き抜けに、モールを螺旋状にたたんで組み込んだのは王道的展開といえるし、敷地の勾配をその計画の初期条件として取り込んでいるのも分かりやすい。きわめてオーソドックスな、よくできた「解」だとは思うが、それだけにこのつまらなさは一体なんだろうという思いが際立つ。それに、かつての同潤会青山アパートを一部再現した「同潤館」は、他の場所への関係の結び方に明らかに積極性を欠いていて、いかにもとってつけた口実のようだ。ウチの学生は（特殊な修養を要する、いわゆる）「建築」は分からないが、「つまらない」という意見ではだいたい一致した。はて、「建築の学生」はこれをどう思うのだろう。 同じ斜面でも（←無理あり）、このバス停はいいなあ。旅行３日目の真鶴でのひとこま。でも何がいいんだろう。 こういう経験を僕らはどう考えればよいのか。計画されていないものの方が魅力的なんだよねみたいなことを言ってみても何も考えたことにはならない。斜面のバス停だって計画されたものには違いないから。ではそれが匿名的・重合的な特質を獲得するにいたるプロセスとは何だろうか。「計画」の契機はそのときどこに隠れていくのだろうか。 中谷礼仁『セヴェラルネス − 事物連鎖と人間』（鹿島出版会）は、（あえて言えば）この問題を本気で考えた書。似たような疑問を抱く人は必ず読むべし（中谷さん、たいへん遅くなりましたが、ご本ありがとうございました）。...</summary>
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      <email>aoao_fay@mac.com</email>
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      <![CDATA[<p>ゼミ旅行２日目は築地市場の食堂で昼食をとり、築地本願寺に挨拶をしてから表参道ヒルズへ。しかし、「ヒルズ」はがっかりした。古典的百貨店の吹き抜けに、モールを螺旋状にたたんで組み込んだのは王道的展開といえるし、敷地の勾配をその計画の初期条件として取り込んでいるのも分かりやすい。きわめてオーソドックスな、よくできた「解」だとは思うが、それだけにこのつまらなさは一体なんだろうという思いが際立つ。それに、かつての同潤会青山アパートを一部再現した「同潤館」は、他の場所への関係の結び方に明らかに積極性を欠いていて、いかにもとってつけた口実のようだ。ウチの学生は（特殊な修養を要する、いわゆる）「建築」は分からないが、「つまらない」という意見ではだいたい一致した。はて、「建築の学生」はこれをどう思うのだろう。</p>

<p><img alt="manazuru_busstop.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/manazuru_busstop.jpg" width="400" height="299" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>同じ斜面でも（←無理あり）、このバス停はいいなあ。旅行３日目の真鶴でのひとこま。でも何がいいんだろう。</p>

<p>こういう経験を僕らはどう考えればよいのか。計画されていないものの方が魅力的なんだよねみたいなことを言ってみても何も考えたことにはならない。斜面のバス停だって計画されたものには違いないから。ではそれが匿名的・重合的な特質を獲得するにいたるプロセスとは何だろうか。「計画」の契機はそのときどこに隠れていくのだろうか。</p>

<p>中谷礼仁『セヴェラルネス − 事物連鎖と人間』（鹿島出版会）は、（あえて言えば）この問題を本気で考えた書。似たような疑問を抱く人は必ず読むべし（中谷さん、たいへん遅くなりましたが、ご本ありがとうございました）。<br clear="all"></p>]]>
      <![CDATA[<p><img alt="manazuru_scape2.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/manazuru_scape2.jpg" width="400" height="300" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>海の側からみた真鶴町の中心部。</p>

<p>みなさん真鶴は御存知ですよね。言わずと知れた、あの「美の条例」の真鶴です。</p>

<p>「美」などというと気恥ずかしい気もするくらい、何のてらいもない美しさ。もちろん、真鶴が美しいのは「美の条例」に基づいているから、というわけではない。反対に、この町が積み重ねて来たあたりまえの変化と持続の蓄積を丁寧に読み取り、物神化せずに尊重しようとするのが「美の条例」だ。</p>

<p>「伝統的町家」が並ぶがゆえに拘束的な保存＋修正路線が定まってしまうような歴史的町並みでもなく、（マンション訴訟で有名な）国立の大学通りのような市民意識の高い街でもなく、とりたてて特徴のないマチで「美」をやわらかく定義しようとした功績は大きい。<br clear="all"></p>

<p><img alt="manazuru_street2.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/manazuru_street2.jpg" width="400" height="300" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>等高線に沿った小径。<br clear="all"></p>

<p><img alt="manazuru_steps.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/manazuru_steps.jpg" width="400" height="533" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>等高線から等高線へと「横断」する小径。</p>

<p>ここに、あるまとまりをもった（定義可能な）場所が継起的に連なっていくだろうことが予感される。アレグザンダーのパタンランゲージはこういう観察に根拠を与えるものだし、御存知のように「美の条例」は、アレグザンダーのパタン・ランゲージを使って、「まちづくり条例」のコードをつくることで、名付けがたいマチの質を動的に保存しようとする。</p>

<p>この小径（パス）には、「小さな人だまり」「街路を見下ろすテラス」「ふだんの緑」「青空階段」「よい玄関」「窓の組子」「日の恵み（縁側）」といったパタンが連なる。個々のパタンも材料や色について示唆するパタンの組み合わせであり、またパタンどうしを接続する「つながり」もパタンとして示される。</p>

<p>実をいうと、五十嵐敬喜・池上修一・野口和雄『美の条例』（学芸出版社、1996）を読んでも、僕はなかなかその面白さは実感できずにいた。やはり、フィールドからくみ上げられたものを、フィールドを介さずに理解することはなかなか難しい。ちょうど、中谷さんが銅版画の実際（フィールド）を通してピラネージに迫っているように。</p>

<p>というわけで、上のバス停は、真鶴散歩で僕が勝手に見つけたお気に入りの「パタン」なのでした。<br clear="all"></p>

<p><img alt="manazuru_community2.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/manazuru_community2.jpg" width="400" height="300" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>こちらは「美の条例」を体現すべく設計された「コミュニティ真鶴」。街との関係から細部にいたるまでを段階的に接続し、比較的小さなスケールの要素を丁寧に配した、とても居心地のよい上手な建物でした。久しぶりに、いい建物だなと素直に思えた。<br clear="all"></p>

<p><img alt="manazuru_community.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/manazuru_community.jpg" width="400" height="299" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>「コミュニティ真鶴」に置かれている「美の条例」のデザインコード集に見入る学生たち。町役場の都市計画課で、いろいろと資料を入手したのが今回の旅行の最後のお土産になりました。<br clear="all"></p>]]>
    </content>
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    <title>別のマチもありえた、かも。・・・ゼミ旅行（20060226-28）その２</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000400.html" />
    <modified>2006-03-04T23:30:25Z</modified>
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    <created>2006-03-04T23:30:25Z</created>
    <summary type="text/plain">ゼミ旅行２日目。ホテルのある晴海から築地まで歩き、初めての築地市場へ。 歩きはじめてすぐに目に飛び込んで来たのが可愛らしくもカッコいい１人乗りのトラック。 これ、ターレット・トラック ---- 通称「ターレ」と言う。ターレット(turret)というのは戦車や軍艦の砲塔部分のように「旋回するもの」の意。円筒形の本体部に、原動機・駆動装置・前輪・ステアリングがすべてユニット化され、最上部のフラフープみたいなステアリングを両腕で抱え込むようにして回すと、円筒形の動力ユニット全体が回転する。この機構により、車長を半径とする回転が可能な（後輪が軸となる）、超小型のトラックを実現しているのだ。 何百台というターレが次々に目の前を行き交う光景は衝撃的だった。幾度となく立ち止まり、ただターレを眼球だけで追いかけ、口を開けたまま空想にふける。築地市場をひとつのマチ、クニ、あるいは世界だと思えば、ここはわれわれとは別の道筋で発展してきた別の文明世界であるに違いない。「メーベ」という１人乗りグライダーのあるクニはたしか「風の谷」と言った。それならここは何と名付けたらいいだろうか。 風の谷には「メーベ」。魚の市には「ターレ」。えーと、ふざけているわけではありません。ある条件の束が、世界を少しだけつくり変えたのだ、と考えてみることもできるから。...</summary>
    <author>
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    <dc:subject>0100_semi</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p><img alt="tsukiji.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/tsukiji.jpg" width="400" height="298" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>ゼミ旅行２日目。ホテルのある晴海から築地まで歩き、初めての築地市場へ。<br clear="all"></p>

<p><img alt="turret_truck2.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/turret_truck2.jpg" width="400" height="300" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>歩きはじめてすぐに目に飛び込んで来たのが可愛らしくもカッコいい１人乗りのトラック。</p>

<p>これ、ターレット・トラック ---- 通称「ターレ」と言う。ターレット(turret)というのは戦車や軍艦の砲塔部分のように「旋回するもの」の意。円筒形の本体部に、原動機・駆動装置・前輪・ステアリングがすべてユニット化され、最上部のフラフープみたいなステアリングを両腕で抱え込むようにして回すと、円筒形の動力ユニット全体が回転する。この機構により、車長を半径とする回転が可能な（後輪が軸となる）、超小型のトラックを実現しているのだ。<br clear="all"></p>

<p><img alt="turret_truck.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/turret_truck.jpg" width="400" height="300" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>何百台というターレが次々に目の前を行き交う光景は衝撃的だった。幾度となく立ち止まり、ただターレを眼球だけで追いかけ、口を開けたまま空想にふける。築地市場をひとつのマチ、クニ、あるいは世界だと思えば、ここはわれわれとは別の道筋で発展してきた別の文明世界であるに違いない。「メーベ」という１人乗りグライダーのあるクニはたしか「風の谷」と言った。それならここは何と名付けたらいいだろうか。</p>

<p>風の谷には「メーベ」。魚の市には「ターレ」。えーと、ふざけているわけではありません。ある条件の束が、世界を少しだけつくり変えたのだ、と考えてみることもできるから。<br clear="all"></p>]]>
      <![CDATA[<p><a href="http://www.tsukiji-market.or.jp/">ウェブサイト</a>によると、築地市場の仲卸業者数は850ほど。この部門のターレット数も約800というから、単位の小さい、膨大な数の業者が、それぞれに１台のターレットを持っている見当だ。さらに、生産者・出荷者、卸売業者、仲卸業者、売買参加者、消費者といったものの間でお魚さんのやりとりを想像してみると、錯綜するリゾームになる。こういうところでは、工場のような一元的な輸送体系（ツリー）は成立しえない（工場で活躍するターレもあるが）。それに、積載量が大きく高価なリフトよりも、１人に１台の小さくて安価なターレの方が合理的だろう（1台90万円くらい）。市場の空間は非常に整然としているが、通路（街路）は狭く、いろいろなモノや人であふれかえっていて移動は容易でないし、互いにしょっちゅうぶつかるだろう。ターレの本体動力ユニットが円筒形であるのは、機構上の当然の要請だが、それだけでなくボールのように衝突しあい、はじきあうためでもあろう。</p>

<p><img alt="truck.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/truck.jpg" width="400" height="533" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>これが木製の「トラック」。これもまだかなりの数が活躍している。市場内輸送体系という点でみれば、こういう木製荷車からターレへと置き換わってきたのはたぶん事実だろう（正確なところは分かりません）。ちなみにこのターレ、市場内の排ガス問題から、急速に電化が進んでいるらしい（ちょっと前までは全部ガソリンだった）。燃料が違えば、その補給形態も異なる。比較的大きな給油所から、小さくて遍在しうる充電スポットへ。充電したいターレはあちこちのスポットに集まり、いい子でじっと電気がたまるのを待ち、また仕事へと出かけていく。可愛らしいし、世界としての完成度がきわめられていく感じがする。</p>

<p>ターレとは何か。市場という世界のもつ構造と照らしながら研究したら絶対おもしろいだろう。名古屋あたりの市場にもいるかな、ターレ。探してみよう。<br clear="all"></p>

<p>最後ですがターレ（ターレット・トラック）をつくっているのは以下の３社。<br />
・<a href="http://www1.ocn.ne.jp/%7Easaka-ss/"target="_blank">朝霞製作所/ターレットトラック</a>・・・築地モデルはこの会社がつくっている。<br />
・<a href="http://www.echna.ne.jp/~q7moriko/html/jigyo05a.html"target="_blank">関東農機/マイテーカー</a><br />
・<a href="http://www.fhi.co.jp/ecotechnology/kankyo/motoruc/motoruc.htm"target="_blank">富士重工業株式会社/モートラック</a></p>]]>
    </content>
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    <title>同時になりたい・・・ゼミ旅行（20060226-28）その１</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000397.html" />
    <modified>2006-03-01T04:55:06Z</modified>
    <issued>2006-03-01T13:55:06+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2006:/~aoao/mt//4.397</id>
    <created>2006-03-01T04:55:06Z</created>
    <summary type="text/plain">2006.02.26〜28、ゼミ旅行に出かけた。 1日目は雨で江戸東京博物館へ。前にも1度行ったことがあるが、あらためてじっくり見たらとても勉強になってしまい、みるみる時間がたってお目当てだったはずのエコシティ東京展にもたどり着かず閉館（涙）。 江戸東京博の模型はどれもすごいが、とくに芝居小屋が密集してる両国のは面白いなあ。布の皮膜で覆われたビル群（ヴィトンもプラダも真っ青？）。その周囲に奥行きの浅い小さな店がはりつく。うじゃうじゃ人が群がり、隅田川には舟がひしめく。ああ行ってみたい。ものすごく行ってみたい。あの雑踏に紛れたい。 アインシュタインさん、同時性は相対的なんですよねえ。僕もどうにかしたら、同時性の平面がぐいと傾いて、あれと同時になれるんでしょうか。...</summary>
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    <dc:subject>0100_semi</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p>2006.02.26〜28、ゼミ旅行に出かけた。<br />
1日目は雨で<a href="http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/">江戸東京博物館</a>へ。前にも1度行ったことがあるが、あらためてじっくり見たらとても勉強になってしまい、みるみる時間がたってお目当てだったはずの<a href="http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/about/josetsu/dai2/2006/0127/0127.html">エコシティ東京展</a>にもたどり着かず閉館（涙）。</p>

<p><img alt="edo_tokyo.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/edo_tokyo.jpg" width="300" height="225" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>江戸東京博の模型はどれもすごいが、とくに芝居小屋が密集してる両国のは面白いなあ。布の皮膜で覆われたビル群（ヴィトンもプラダも真っ青？）。その周囲に奥行きの浅い小さな店がはりつく。うじゃうじゃ人が群がり、隅田川には舟がひしめく。ああ行ってみたい。ものすごく行ってみたい。あの雑踏に紛れたい。</p>

<p>アインシュタインさん、同時性は相対的なんですよねえ。僕もどうにかしたら、同時性の平面がぐいと傾いて、あれと同時になれるんでしょうか。<br clear="all"></p>]]>
      <![CDATA[<p><img alt="ginza_renga.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/ginza_renga.jpg" width="300" height="400" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>これ、わかりますか？　銀座煉瓦街の裏。表はまぎれもなく東南アジアの英国植民都市の引き写しなんだけど、裏はこんなで妙な説得力。これなら手ぬぐいとかフンドシも干せそう。ちなみに表のファイブフットウェイ（歩廊）はところどころ勝手に壁がつくられて通り抜けられなくなっている。そうした方が商売のスペースが広がるからね。台湾みてると、こんなの説明不要なほど納得できるけど、そうすると日本人も華人も似たようなものだったのかもしれない。ああ行ってみたい。</p>

<p>でもなんで百何十年も前の人の考えることが疑いようももなく想像できるんだろうか（誰であれ）。それが同時性の平面（ぐにゃっとした曲面でもよい）ってことなのかな。観察者は、今の台湾と百何十年前の日本とが同時になるような運動をしているということなのだろうか。最近、科学哲学史の本を読んだのでこんな短絡的なことばっか考えてしまう。<br clear="all"><br />
<img alt="tsukishima.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/tsukishima.jpg" width="300" height="225" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>そいでもって、夜は月島を歩いてもんじゃ初体験。OBのしばっち（元521住人で東京の劇団職員）も合流。しばっち元気そうですなあ。またいつか会いましょう。<br clear="all"></p>]]>
    </content>
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    <title>テツキドウ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000395.html" />
    <modified>2006-02-25T02:19:38Z</modified>
    <issued>2006-02-25T11:19:38+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2006:/~aoao/mt//4.395</id>
    <created>2006-02-25T02:19:38Z</created>
    <summary type="text/plain">卒論１本紹介。（今後、断続的に、つづく、かも。） Ｕ君は、岐阜市の廃線後の路面電車の軌道をとりあげた。といっても、最近よくある「路面電車によるまちづくり」みたいな結構なお話とはちょっと違う。廃線によって用を失った「鉄軌道」というモノが、しかしなお都市に何かを及ぼし続けているということをクローズアップした研究なのである。...</summary>
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      <![CDATA[<p>卒論１本紹介。（今後、断続的に、つづく、かも。）</p>

<p>Ｕ君は、岐阜市の廃線後の路面電車の軌道をとりあげた。といっても、最近よくある「路面電車によるまちづくり」みたいな結構なお話とはちょっと違う。廃線によって用を失った「鉄軌道」というモノが、しかしなお都市に何かを及ぼし続けているということをクローズアップした研究なのである。</p>]]>
      <![CDATA[<p>路面電車は、「道路」という空間を、電車が自動車・自転車・歩行者と併存しながら走るものなので、その限られた空間に棲み分けの作法が成立して秩序化されていたと彼は言う。その電車がなくなり、たんなる鉄（鉄軌道）が残されたのに、その秩序は厳然として生きているのではないかということを、Ｕ君はなぜか見つけた。</p>

<p>たとえば自動車は普段は軌道を避けて走り、右折が近づくと侵入し、軌道上を「右折レーン」として利用するが、これは電車が走っていたときと同じ。まるで透明の幽霊電車が走っているみたいに、道路が秩序を維持しているのだという。少し周辺部に出ると、住宅の立ち並ぶ目の前に軌道が走る。こういうところでは、車をバックさせて軌道を横切らないと「車庫入れ」ができないし、「車庫出し」はその反対。それが日常なのだ。軌道は、電車を走らせるということ以外に、さまざまな「作用」を都市に及ぼしているらしい。</p>

<p>Ｕ君は無用の軌道に沿って歩き、その「作用」のサンプルを丹念に集め、きれいに図面を描き、メモを入れ、さらに聞き取りを重ねた。ほとんどの人は、無用の軌道を邪魔だとは思っていない。軌道の「作用」に対応して蓄積された「作法」をたんたんと反復すればよいからだ。軌道はちゃんと都市に埋め込まれている。</p>

<p>ところで軌道は、文字通り「埋め込まれて」いる（道路に）。そのへんの所有関係ってどうなっているのだろう。道路は官有地だから、路面電車経営者の名鉄（名古屋鉄道）は、道路用地のなかから、細くて長くて切れ目なくつながった土地を借りて、そこに自分の所有する資産（軌道のことです）を埋めて、使用するのだ。そして、借地人である名鉄は、廃線の場合この私有資産を（自分の負担で）撤去しなければならないことになっている。</p>

<p>これに対するＵ君の最後の主張はきわめて単純だがそれなりに繊細なものになっている。無用の軌道は、危険性の高い（「作法」を形成しにくい）「作用」を及ぼしている部位のみを丁寧に選り分けて撤去し、他は文化財として「無用」のまま残して、軌道の「作用」と人々の「作法」を存続させる。そうして15年後か30年後の路面電車復活に備えよ、というもの。日常的に踏みつけられることで何かを伝える文化財。</p>

<p>実際には、撤去して新設した方が安いか、維持して活用した方が安いかは分からない。しかしそんなものは計算できるのだろうか。計算するのなら、都市が蓄積した「作用」の記憶を復活させるのに人々が払わなければならないコストをも、算出すべきなのだろう。</p>

<p>しかしまあ、何よりもテーマの「地味さ」によく耐えてまとめあげたと思う。完成度も頭抜けていた。</p>]]>
    </content>
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    <title>青井ゼミ卒論。充実のラインナップです。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000392.html" />
    <modified>2006-02-17T14:14:29Z</modified>
    <issued>2006-02-17T23:14:29+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2006:/~aoao/mt//4.392</id>
    <created>2006-02-17T14:14:29Z</created>
    <summary type="text/plain">卒業論文（提出締切は1月12日）の口頭試問が今週おこなわれている。青井ゼミは2月14〜15日の両日だった。 人間環境大学は単学部・単学科なのだけど、生物学や化学から、法律学、経済学、心理学、言語学、文化人類学、美学、伝統工芸にいたるまで、基本的には教員の数（40名弱）だけ分野があって、僕はそのなかで都市計画を教えている。だから最初は不思議な気分だった。 学生の立場からみるとこうだ。様々な分野にわたる科目のリストから、各自の履修プランを組み立てて４年間を設計する。科目表が平面で、時間軸が垂直だとしたら、そこにできる立体的なマトリクスのなかに、４年間でどういう立体を刻み出すかが自由なのだ。立体は複雑なかたちをしているだろうが、たいてい下の方が広くて頂点は尖った錐体をしている。その尖った先端がゼミで書く卒業論文にあたる。 当然ながら卒論も実に多様。微生物を顕微鏡で数えたという論文から、張り子のイヌのデザイン的な系譜を調べた論文まで、本当にいろいろ。これで単学科です（！）。いや不思議な大学だ。 だから最後の締めくくりは、そうして各自が組み立ててきた立体の尖った頂点を、完全にオープンなかたちで発表しあうのがいいと僕は思っている。みんなひとつの会場で発表したら、きっと、「ああこれが人間環境大学だったのか」と、初めて実感できるに違いない。そういう不思議な大学なのであって、その不思議さを積極的に考えなければつまらない（だから「口頭試問」という今のやり方はそろそろ変えられないかなと思っております）。 それはともかく、青井ゼミは今年９本の卒論を出した。 臆面もなく言いわせていただきます。充実のラインナップです。 ちょっと紹介しようかな。このブログで。...</summary>
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    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p>卒業論文（提出締切は1月12日）の口頭試問が今週おこなわれている。青井ゼミは2月14〜15日の両日だった。</p>

<p><a href="http://www.uhe.ac.jp/index_fla.html">人間環境大学</a>は単学部・単学科なのだけど、生物学や化学から、法律学、経済学、心理学、言語学、文化人類学、美学、伝統工芸にいたるまで、基本的には教員の数（40名弱）だけ分野があって、僕はそのなかで都市計画を教えている。だから最初は不思議な気分だった。</p>

<p>学生の立場からみるとこうだ。様々な分野にわたる科目のリストから、各自の履修プランを組み立てて４年間を設計する。科目表が平面で、時間軸が垂直だとしたら、そこにできる立体的なマトリクスのなかに、４年間でどういう立体を刻み出すかが自由なのだ。立体は複雑なかたちをしているだろうが、たいてい下の方が広くて頂点は尖った錐体をしている。その尖った先端がゼミで書く卒業論文にあたる。</p>

<p>当然ながら卒論も実に多様。微生物を顕微鏡で数えたという論文から、張り子のイヌのデザイン的な系譜を調べた論文まで、本当にいろいろ。これで単学科です（！）。いや不思議な大学だ。</p>

<p>だから最後の締めくくりは、そうして各自が組み立ててきた立体の尖った頂点を、完全にオープンなかたちで発表しあうのがいいと僕は思っている。みんなひとつの会場で発表したら、きっと、「ああこれが人間環境大学だったのか」と、初めて実感できるに違いない。そういう不思議な大学なのであって、その不思議さを積極的に考えなければつまらない（だから「口頭試問」という今のやり方はそろそろ変えられないかなと思っております）。</p>

<p>それはともかく、青井ゼミは今年９本の卒論を出した。<br />
臆面もなく言いわせていただきます。充実のラインナップです。<br />
ちょっと紹介しようかな。このブログで。</p>]]>
      
    </content>
  </entry>
  <entry>
    <title>リン家の人々</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000389.html" />
    <modified>2006-02-05T03:39:16Z</modified>
    <issued>2006-02-05T12:39:16+09:00</issued>
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    <created>2006-02-05T03:39:16Z</created>
    <summary type="text/plain">人類学者はムラやイエに住み込む。ムラやイエは、それを「○○社会」と表現する人類学的記述に解消できない、無名の人々の生活に満ちていて（←あたりまえ）、それがそのまま（地名・人名を仮称とした）ノンフィクション作品になることがある（←これは意外と希有）。 台湾農村をフィールドとしたマージャレイ・ウルフ『リン家の人々』（Margery Wolf, The House of Lim : A Study of a Chinese Family, 1968／中生勝美訳、風響社、1998）もそうした著作のひとつ。林耀華『ゴールデン・ウィング』（Lin Yueh-Hwa, The Golden Wing, 1948／邦訳なし）、アイダ・プルーイット『漢の娘...</summary>
    <author>
      <name>aoao</name>
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    <dc:subject>0300_book</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p>人類学者はムラやイエに住み込む。ムラやイエは、それを「○○社会」と表現する人類学的記述に解消できない、無名の人々の生活に満ちていて（←あたりまえ）、それがそのまま（地名・人名を仮称とした）ノンフィクション作品になることがある（←これは意外と希有）。</p>

<p>台湾農村をフィールドとした<img alt="house_of_lim.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/house_of_lim.jpg" width="128" height="196" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/><a href="http://www.fukyo.co.jp/02-naiyo/ISBN4-938718-20-0.html">マージャレイ・ウルフ『リン家の人々』（Margery Wolf, The House of Lim : A Study of a Chinese Family, 1968／中生勝美訳、風響社、1998）</a>もそうした著作のひとつ。林耀華『ゴールデン・ウィング』（Lin Yueh-Hwa, The Golden Wing, 1948／邦訳なし）、アイダ・プルーイット『漢の娘 − 寧老太太の生涯』（Ida Pruitt, A daughter of Han : the autobiography of a Chinese working woman, 1967／松平いを子訳、せりか書房、1980）と並んで、アメリカでは中国社会を研究する者の必読文献なのだという。うん、たしかに面白い。</p>

<p>何というか、もう、どろどろなんです。閩南語で「媳夫仔（シンプア）」と呼ばれる養女（養家の息子の妻となることを決められ、幼い頃からその男子と一緒に兄妹として育てられる）、恋人、ムラやマチの売春婦・・・性を軸とする複雑な人間関係が、ムラ人たちの生々しい証言や噂話、それに自分が立ち会ってしまった目撃の記録とによって克明に描き出されていて、もうあまりのエントロピーの高さに背筋が凍り付きそうだった。図式化するのは野暮だが、こういうナマの生活と、先祖と家長に吊り支えられる宗族の観念とが折り合わず、やがてリン家の大家族は（内にみなぎる緊張を解き放つために）分解をはじめる。</p>

<p>僕は１年くらい前から台湾漢人住居史の調査をコツコツやっていて、普通のムラの普通のイエの、しかも寝床を見て、写真をとり、スケッチをして、採寸している。そういう寝床が、イエやムラの無名の人々の粘液にまみれた生活の場であったことを想像せざるをえなくなって、何だかフィールドノートもふれるのがためらわれる今日このごろ。コンベックス（巻尺）なんてもうかなり嫌です。<br clear="all"></p>]]>
      <![CDATA[<p><img alt="taikah.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/taikah.jpg" width="128" height="171" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>僕が調査している総舗（ツォンポー、これも閩南語）は、寝台と和室との中間形態で、大家族時代の台湾漢人のムラやイエが、日本植民地支配との接触によって生み出した装置とみている。実際のところ総舗は、植民地支配が終わった後も、1970年代くらいまでは普通にどのムラのどのイエにもあった。寝台（ベッド）のように寝る人数を限定しない総舗は、息子が結婚し、子供が生まれればたいてい設えるものだった（左の写真は大甲／2006.01.03撮影）。</p>

<p>ウルフ女史が人類学者の夫（当時）と台北近郊の農村に住み込んだのは1960年代。案の定、この本が描く北后店（ムラの仮称）のリン家（イエの仮称）にもツォンポーはあった模様。２カ所だけだが描写がある。</p>

<p>「北后店の寝室には、伝統的な彫刻が施された家具と頑丈だけどいびつな形の蚊帳付きベッドがある。また日本式の畳を敷きつめただけの寝室もある。畳は、子どもが多い家族にとって非常に便利である。なぜなら、何人でも寝られるから。寝つけない熱帯夜に、古いタイプの寝台なら暑くてオーブンの中にいるようだけれども、畳はかなり涼しい。」（p.49-50）</p>

<p>「食堂の並びに増築された部屋は、別の寝室になっている。ここはリン・アポゥの未婚の息子の部屋だが、彼はいつも遊びに来た子どもたちや男性の親戚、また短期住み込みの雇い人などと畳の寝台で一緒に寝なければならない。」（p.55）</p>

<p>伝統的な蚊帳付きの寝台、これは普通「紅眠床」と呼ばれるものだ。一方、「畳を敷きつめただけの寝室」、あるいは「畳の寝台」と表現されているのが、「総舗（ツォンポー）」である（彼らアメリカ人は閩南語ができなかった）。</p>

<p>ツォンポーは、寝る者を限定しない、融通のきく、雑魚寝の設えだったわけだ。でも畳はたんに「便利」で「涼しい」というよりも、むしろ高いエントロピーを許容する設えだということを、なぜかアメリカ人にお知られるハメに。うわあ（汗）。</p>

<p>ウルフ女史はひとつの大家族の分解を見届けて、帰国後に人類学者になる。小さな核家族が当たり前になると、ツォンポーの役割は（100％ではありませんが）終わり、洋式のベッドが一般化していく（と僕は予想している）。その後に、高級マンションのステイタスシンボルとして、「和室」（←これはそう呼ばれる）が登場してきたことを、ウルフ女史はご存知だろうか。　<br clear="all"></p>]]>
    </content>
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    <title>台中発 - 東京行の通し切符で  ----- 途切れぬ線のドキュメント。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000384.html" />
    <modified>2006-01-20T07:54:40Z</modified>
    <issued>2006-01-20T16:54:40+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2006:/~aoao/mt//4.384</id>
    <created>2006-01-20T07:54:40Z</created>
    <summary type="text/plain">遅くなってしまったが、昨年末（→こちらを参照）につづき、年明けの1月6日に何是耕さんに再会した。その折のインタビューについてかいつまんで報告。 植民地支配の遺産が、解放後の台湾でどのような道を辿り、どのように意味を転じていくのか、その克明なドキュメントのひとつを聞くことができた。何さん自身のライフヒストリーもたいへん興味深い。「台中発・東京行き」の通し切符（！）の話とか、本当はディテールがすごく面白いんだけど今回は割愛。 （写真は20060107撮影。圓山大飯店の本館。そのあたりに台湾神社の拝殿から本殿にいたる中心部分があったと思われる。撮影者のいる駐車場のあたりが旧社務所の位置にあたる。よくみると当時のものと思われる日本風の石垣があった。）...</summary>
    <author>
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    <dc:subject>0600_taiwan</dc:subject>
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      <![CDATA[<p><img alt="grand_hotel.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/grand_hotel.jpg" width="300" height="399" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>遅くなってしまったが、昨年末（→<a href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000378.html">こちらを参照</a>）につづき、年明けの1月6日に何是耕さんに再会した。その折のインタビューについてかいつまんで報告。</p>

<p>植民地支配の遺産が、解放後の台湾でどのような道を辿り、どのように意味を転じていくのか、その克明なドキュメントのひとつを聞くことができた。何さん自身のライフヒストリーもたいへん興味深い。「台中発・東京行き」の通し切符（！）の話とか、本当はディテールがすごく面白いんだけど今回は割愛。</p>

<p><br />
（写真は20060107撮影。圓山大飯店の本館。そのあたりに台湾神社の拝殿から本殿にいたる中心部分があったと思われる。撮影者のいる駐車場のあたりが旧社務所の位置にあたる。よくみると当時のものと思われる日本風の石垣があった。）<br clear="all"></p>]]>
      <![CDATA[<p>植民地時代に日本側が収奪・蓄積していった土地・建物・会社などの資産は、光復（植民地解放）以後、基本的には中華民国台湾省政府が管轄する国有資産へと引き継がれた（接収）。それら資産のなかに、JTBの台湾支社にあたる会社組織があり、これは台湾省交通処管轄の台湾旅行社として引き継がれた。スタッフのなかには、戦前からの職員もいた（植民地時代から以後へと、同じ会社組織で働き続けられる人も少なくなかったのだ）。この官営旅行社は、台北のほか、新竹・台中・台南・高雄・花蓮に支社があり、鉄道の切符販売やキオスク経営、航空券手配、様々な旅行のアレンジなどに加え、ホテル経営の部門を持っていた。植民地時代からのホテルを引き継いで経営するものもあったが、新たにいくつものホテルを立ち上げた。そのひとつが、いまでも国賓級が泊まる台北の圓山大飯店（Grand Hotel Taipei）だ。</p>

<p>圓山というのは、剣潭山の峯がカーブを描いて台北市街の方へ迫り出してくるその麓を、東西に走る基隆河がグネッと曲がる、そのあたりの南側にぽっかり浮かぶ円い（＝圓い）丘（＝山）のこと。圓山大飯店は、この圓山を見下ろす剣潭山の稜線上の土地にあるが、その地はかつて官幣大社台湾神社の境内だった。台湾神社のあらゆる資産は国有財産と考えてよいから、これもまた台湾省政府が引き継いでいた。ここにホテルを建てる計画があるからと、大抜擢されて経営を任されたのが何是耕さんである。完成したホテルの名は、圓山・・ではなく「台湾大飯店」といった。</p>

<p>何さんがこの計画にかかわりはじめた頃、すでに境内跡に社殿はなかった。しかし鳥居があり、社務所があり、境内下には神職の宿舎があった。拝殿から本殿にいたる主要社殿が並んでいたはずのあたりを整地して、最初のホテル本館（現在の建物ではない）が建設されたが、その後もしばらくの間、神職宿舎は職員の宿舎として、また社務所（つまり神社のオフィス）は幹部職員の宿舎として利用されつづけた。何是耕さんはだから一時かつての社務所に住み、そこで次女が生まれた。</p>

<p>何是耕さんは1919年台中生まれ。1939年、台中発・東京行の切符を買って「上京」、日大の予科に学び、卒業とともに1945年の5月に中国の開封へ向かう。日本総領事館につとめる外交官として、総領事の通訳をつとめたのである（このため徴兵を免れた）。まもなく終戦。共産党軍に線路を爆破され、引揚はスムーズに行かず、ようやく連雲港から、青島・上海をへて、基隆に到着、生きていた鉄道で台中の家に帰った。息子は死んだものと観念していた父を驚かせた。1946年5月のことである。</p>

<p>その後、台中で英語教師をつとめ、同じく学校教師だった妻と知り合い結婚（彼らが各々つとめた学校も、植民地時代にはじまり、光復とともに引き継がれた資産のひとつだ）。1950年に台湾旅行社の職員募集を知り、応じたところ採用され、その夏に入社。最初のうちは台湾三大観光地のひとつ阿里山へ旅行者を案内する仕事ばかりしていた。なかなか想像しづらいことだが、この戦後の混乱つづく時期に国内からも海外からも観光客が阿里山に向かった。大陸からも、アメリカからも、また数年前まで植民地宗主国だった日本からも（！）。何さんは母語（閩南語）の他に、植民地教育で日本語を、さらに東京（日大予科）で北京語を学んでいたし、英語の素養もあった。それが開封での仕事にも、旅行社の仕事にも生きたのである。やがて淡水のホテルへ転勤となり、まもなく台北招待所（これもホテル）の支配人をしながら「台湾大飯店」創立準備を任せられることになる。創立後は支配人（経営責任者）ということも決まっていた。</p>

<p>台湾大飯店は1951年竣工・開店。営業は順調だった。しかし、翌52年の5月、何さんは旅行社の上司から唐突な指示を受ける。事実上官営であるこのホテルを独立させる、ついては移管手続きを明日行うから引継ぎ目録を作成せよというのだ。引継ぎの相手は徐潤勲といい、宋美齢（蒋介石の妻）の秘書をしていた男だった。こうして、開業後1年ほどで台湾大飯店の経営は有無をいわさず民営化され、「圓山大飯店」と改称された。台湾神社境内の跡地であり国有地であったホテルの敷地は、いまでも国有地のままだが、その管理を民間の組織（一種の財産管理委員会）が行うかたちになっているのだという。またホテルの建物も当初は台湾銀行（植民地時代の台湾銀行を接収）が巨額の出資をしたが、政府は口を出せないかたちになっており、のちに建て替えられている。つまり、国有地の上に国費を投じて成した資産を、払い下げをするわけでもなく、つまりは国有のままにして、その管理・運用権を民間団体に移すというやり方だった。もちろん、この民間団体は宋美齢の側近たちで構成される。彼女は自分が「気に入った」ホテルを、一夜にして手に入れたのである（書類上はどこにも彼女の名はない）。その後ホテルはおそらく、宋美齢と周辺の人々が私腹を肥やす一助となったであろう。党と政府が一体となった独裁体制のなせる錬金術だった。</p>

<p>何さんはこの一件で台湾旅行社本社に戻ったが、1960年には同社そのものが払い下げられることになり、新しい経営者と方針があわず、社員15名を引き連れて「東南旅行社」を設立する。資本金は15名分の退職金だった。だから実質的に社員の共同経営そのものであり、政府や国民党系の資本に振り回されることなく、蓄積したノウハウを生かして奮闘してきた。東南旅行社は、台湾最大の旅行社として今なお健在。最近、JTB（もちろん日本の）と合弁会社をつくって日本人観光客の受け入れをより積極的に推し進めている。JTBとの縁は、植民地時代からのものであり、その意味では東南旅行社は戦前のJTB台湾支社の正統な後継者なのだとも言えよう。</p>

<p>日本植民地主義が蓄積し、中華民国政府に引き継がれた多様かつ膨大な資産は、50年代以降、次々に民間に払い下げていったが、それら資産は国民党系の政界・財界人たちが安く（時にはタダで）手に入れ、高度成長のなかで飛躍的に資産価値を増した。それが国民党の金権政治の基盤なのであろう。このあたりはまだまだ詳細な研究が及ばないところだ（僕自身もこれを本気でやるつもりはない）。</p>

<p>植民地支配が、のちのちまで途切れぬいくつかの時間の線を描き続けていたことを、こうして発見することができる。あるいは短く、あるいは長い線。</p>

<p>都市・彰化の研究も、総舗（寝台と和室の中間物）の研究も、そうした線をいかに発見し、いかに描くかという問題なのである。</p>

<p><img alt="Yuang_San.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/Yuang_San.jpg" width="400" height="293" border="0" /><br />
（写真は祝Mac版登場、<a href="http://earth.google.com/">Google Earth</a> より、圓山大飯店とその周辺＝旧台湾神社境内）</p>]]>
    </content>
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    <title>『近代日本の作家たち』届く。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000383.html" />
    <modified>2006-01-20T02:08:46Z</modified>
    <issued>2006-01-20T11:08:46+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2006:/~aoao/mt//4.383</id>
    <created>2006-01-20T02:08:46Z</created>
    <summary type="text/plain">黒田智子編『近代日本の作家たち --- 建築をめぐる空間表現 --- 』（学芸出版社）。僕は第２章「吉田五十八」を寄稿。約10年前の中谷礼仁さんらの成果（中川武編『数寄屋の森』丸善,1995など）を加えて吉田五十八理解を整理した（短文です）。...</summary>
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    <dc:subject>0300_book</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p><a href="http://www.gakugei-pub.jp/mokuroku/book/ISBN4-7615-2379-4.htm">黒田智子編『近代日本の作家たち --- 建築をめぐる空間表現 ---  』（学芸出版社）</a>。僕は第２章「吉田五十八」を寄稿。約10年前の中谷礼仁さんらの成果（<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4621040219/qid%3D1137722034/250-8078304-0894609">中川武編『数寄屋の森』丸善,1995</a>など）を加えて吉田五十八理解を整理した（短文です）。</p>

<p><img alt="modern_japan.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/modern_japan.jpg" width="150" height="210" border="0" /></p>]]>
      
    </content>
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    <title>2006 新年会</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000382.html" />
    <modified>2006-01-15T00:14:17Z</modified>
    <issued>2006-01-15T09:14:17+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2006:/~aoao/mt//4.382</id>
    <created>2006-01-15T00:14:17Z</created>
    <summary type="text/plain">20060114. Sat.　我が家で新年会。3年生からOBまで15人くらいだったかな。久しぶりに会えたOBも多く、楽しい会でした。 僕のゼミは、大学では521という部屋をいくつかのゼミと共有していて、僕も大学ではいつもこの部屋に学生たちと一緒にいる。521は大学のなかでも飛び抜けて元気な部屋。色々な活動の拠点でもあり、ゼミをこえて一緒に作業し、議論し、飲み食いする。この部屋の貴重さを在学生以上によく知っているのはOBたちだ。彼らは卒業後もみんながいつでもまるで521に居るかのように会うことのできる掲示板をつくってくれて、在学生や教員も書き込んでいる。そういう521のOBたちが忙しいなかたくさん集まってくれたというのは、本当に嬉しい。みんな頑張れよ。...</summary>
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    <dc:subject>0200_event</dc:subject>
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      <![CDATA[<p>20060114. Sat.　我が家で新年会。3年生からOBまで15人くらいだったかな。久しぶりに会えたOBも多く、楽しい会でした。</p>

<p>僕のゼミは、大学では521という部屋をいくつかのゼミと共有していて、僕も大学ではいつもこの部屋に学生たちと一緒にいる。521は大学のなかでも飛び抜けて元気な部屋。色々な活動の拠点でもあり、ゼミをこえて一緒に作業し、議論し、飲み食いする。この部屋の貴重さを在学生以上によく知っているのはOBたちだ。彼らは卒業後もみんながいつでもまるで521に居るかのように会うことのできる掲示板をつくってくれて、在学生や教員も書き込んでいる。そういう521のOBたちが忙しいなかたくさん集まってくれたというのは、本当に嬉しい。みんな頑張れよ。</p>

<p><img alt="20060114_newyear.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/20060114_newyear.jpg" width="400" height="300" border="0" /></p>]]>
      <![CDATA[<p><img alt="20060114_newyear2.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/20060114_newyear2.jpg" width="400" height="300" border="0" /></p>]]>
    </content>
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    <title>建築の転写 --- 共同壁（共有される戸境壁）を考える。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000381.html" />
    <modified>2006-01-06T04:03:45Z</modified>
    <issued>2006-01-06T13:03:45+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2006:/~aoao/mt//4.381</id>
    <created>2006-01-06T04:03:45Z</created>
    <summary type="text/plain">鹿港の市街のど真ん中で、街屋がひとつ取り壊されていた。こういう端的な状況は、頭を分析的にする力を持っている。いかがか、この壁の存在感。 何が壊されたのか。取り壊された、と言い表される「建物」は、日本での常識とはずいぶん異なる。この場所で次に行われる「建築行為」も、僕らが当たり前に考えているものとは自ずと違う。前にも書いたが、「うわもの」という言葉、すなわち不動産を地表面までとその上の構築物とで切り分ける思想は普遍的なものではない。 （写真：20050105／彰化県鹿港鎮、以下同） 土地という水平のインフラは、通常は地上物である建築をすっかり相対化し、土地からはみ出さないかぎり、「なんでもあり」にしてしまう。しかし、ここでは建築にとって最も決定的な要素、すなわち戸境壁という垂直のインフラが保存され、それに条件づけられた次の「建築行為」が、都市に一時的に空いた空隙を再び充填する。もちろん、前の建物とは違う。工法が変わる。容積が増す。しかし、よほどの数の「建物」がいっぺんに無くならないかぎり、空間形態を決める原理は転写的に継承されていく。伊勢を思い出す。もちろん同じではない。自己言及が隣の他者を経由するから。...</summary>
    <author>
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      <email>aoao_fay@mac.com</email>
    </author>
    <dc:subject>0600_taiwan</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p>鹿港の市街のど真ん中で、街屋がひとつ取り壊されていた。こういう端的な状況は、頭を分析的にする力を持っている。いかがか、この壁の存在感。</p>

<p>何が壊されたのか。取り壊された、と言い表される「建物」は、日本での常識とはずいぶん異なる。この場所で次に行われる「建築行為」も、僕らが当たり前に考えているものとは自ずと違う。前にも書いたが、「うわもの」という言葉、すなわち不動産を地表面までとその上の構築物とで切り分ける思想は普遍的なものではない。</p>

<p><img alt="20060105_lukang01.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/20060105_lukang01.jpg" width="400" height="300" border="0" /><br />
（写真：20050105／彰化県鹿港鎮、以下同）</p>

<p>土地という水平のインフラは、通常は地上物である建築をすっかり相対化し、土地からはみ出さないかぎり、「なんでもあり」にしてしまう。しかし、ここでは建築にとって最も決定的な要素、すなわち戸境壁という垂直のインフラが保存され、それに条件づけられた次の「建築行為」が、都市に一時的に空いた空隙を再び充填する。もちろん、前の建物とは違う。工法が変わる。容積が増す。しかし、よほどの数の「建物」がいっぺんに無くならないかぎり、空間形態を決める原理は転写的に継承されていく。伊勢を思い出す。もちろん同じではない。自己言及が隣の他者を経由するから。</p>]]>
      <![CDATA[<p>両側の壁は、この家の壁であると同時に、隣家の壁でもある。台湾では「共同壁」と言うらしい（そう聞くことが多い）。共同壁は壊せない。ここでは壁に突き刺さった杉の梁も残されている。きっと相当に古いものだろう。こうした木組みはいつも残されるとは限らないが、ここではまだ使えるという判断なのだろう。それが次につくられる「建物」における室内と光庭の配置、階段の位置などをある程度まで決めるに違いない。そして、表通り（上の写真で車が停めてあるところ）に沿うところでは、法規上、「亭仔脚」と呼ばれる歩廊をつくって開放しなければならない（これも植民地時代に近代法に組み込まれてからもう100年になるから、「伝統的」な法と言ってもいいだろう）。</p>

<p><img alt="20060105_lukang02.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/20060105_lukang02.jpg" width="400" height="536" border="0" /></p>

<p>というわけで応用問題。</p>

<p>Ｑ．　下の写真で、手前にあった建物は1999年の地震の被害が原因で取り壊された後、たまたま所有者の意向で今後も建築されないことになった。その後、この写真の建物が地域の文化財として修復保存されることになり、その際、普通なら（上の写真のように）一時的に露呈するだけの側壁＝戸境壁が「外観」になってしまうので、白く仕上げて、きれいに整備した。</p>

<p>この壁のプロフィール（形状）はどのように決まっていると言えそうか。推理せよ。</p>

<p><img alt="20060105_lukang03.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/20060105_lukang03.jpg" width="400" height="300" border="0" /></p>

<p>Ａ．　この家と、取り壊された隣家の、二つの家の屋根形状（いわば波形）の合成である。</p>

<p>（解説）間口が狭く、奥行きの深い都市的な宅地割りでは、中庭（光庭）を挟みながら建物を並べる構成をとる。だから、側面からみれば、室内空間のあるところは屋根の形をした壁が立ち上がり、中庭のところは隣地との塀になる低い壁があればよい。そのリズムが波のようなプロフィールをつくる。しかし、この写真では波頭（＝屋根）が多すぎる。</p>

<p>実は、この家と隣家とでは波形がズレていた。しかし、隣家が取り壊された際、戸境壁はいつものように残された。言い換えれば、今はない「建物」もそのプロフィールが隣に写された格好になった。この壁は、二つの波形を同時に保存しているのである。クローズアップ（下の写真）をみてほしい。右の山には屋根があるが、左の山は壁だけだ。これは、もともと手前側にあった建物の妻壁なのである。そう思ってよく見れば、段状の装飾も向きが違うのが分かるだろう。</p>

<p><img alt="20060106_lukang04.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/20060106_lukang04.jpg" width="400" height="300" border="0" /></p>]]>
    </content>
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    <title>新年おめでとうございます。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000380.html" />
    <modified>2006-01-01T04:56:51Z</modified>
    <issued>2006-01-01T13:56:51+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2006:/~aoao/mt//4.380</id>
    <created>2006-01-01T04:56:51Z</created>
    <summary type="text/plain">2006年を迎えました。 今年もどうぞよろしくお願い致します。 写真：台北大直の住宅地の屋上から、カウントダウン花火を。 たぶん基隆河の河川敷で打ち上げられていたのではないかと思います。写真の中央はいわゆる透天形式の戦後型ショップハウス群ですが、それを取り巻くように高層マンションがニョキニョキ生えているのが分かるでしょうか。台北とか台中のような大都市では、都心を少し離れるとマンションブーム。おかげで花火もまともに見られず、冬の蚊にも心理的に勝てず、「新年快楽！」と乾杯した缶ビールも半ほどで興ざめして退散。Macに向かって仕事の続きと相成るのでありました。 もっともマンションの足下は、次第に店舗が取り付いていって、部分的にせよショップハウス的原理に浸食されていくのではあります。平安京が中世都市化していくプロセスは、台湾では日常そのもの。 そんな風に、今年はじわじわ粘り強く、したたかに仕事をしたいと思っています。 皆様どうかご指導くださいますようお願いいたします。...</summary>
    <author>
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    <dc:subject>0400_free</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p>2006年を迎えました。<br />
今年もどうぞよろしくお願い致します。</p>

<p><img alt="20060101_firework.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/20060101_firework.jpg" width="400" height="300" border="0" /><br />
写真：台北大直の住宅地の屋上から、カウントダウン花火を。</p>

<p>たぶん基隆河の河川敷で打ち上げられていたのではないかと思います。写真の中央はいわゆる透天形式の戦後型ショップハウス群ですが、それを取り巻くように高層マンションがニョキニョキ生えているのが分かるでしょうか。台北とか台中のような大都市では、都心を少し離れるとマンションブーム。おかげで花火もまともに見られず、冬の蚊にも心理的に勝てず、「新年快楽！」と乾杯した缶ビールも半ほどで興ざめして退散。Macに向かって仕事の続きと相成るのでありました。</p>

<p>もっともマンションの足下は、次第に店舗が取り付いていって、部分的にせよショップハウス的原理に浸食されていくのではあります。平安京が中世都市化していくプロセスは、台湾では日常そのもの。</p>

<p>そんな風に、今年はじわじわ粘り強く、したたかに仕事をしたいと思っています。<br />
皆様どうかご指導くださいますようお願いいたします。</p>]]>
      
    </content>
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    <title>古都・台南にて</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000379.html" />
    <modified>2005-12-28T14:10:01Z</modified>
    <issued>2005-12-28T23:10:01+09:00</issued>
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    <created>2005-12-28T14:10:01Z</created>
    <summary type="text/plain">2005.12.27 Tue.　台南に徐明福先生をたずねた。来年12月に行われるある国際会議にお招きしたく、説明に参上したのである（その具体的なプログラム等は１月末頃にはお知らせできる予定）。博士課程の陳凱劭さんと、うちの奥さんが同席したが、偶然が重なって、傅朝卿先生、陳世明先生も加わった。 徐先生はこちらの意図にすばやく反応されるので、説明というより議論という方が近かった。話が一段落つくと、調子にのって僕の個人的な研究の話まで持ち出して議論をふっかけてしまったのだが、それにも本気で乗っかって下さりちょっと感激。 みなさん口を揃えてこの後パーティだと言うので何かあるのかとたずねると、君たちも遠慮するな、まあまあと連れて行かれたのが建築史系研究室の忘年会。大学の教室に20人ばかりの院生が集まっていた。傅朝卿先生がノリノリなのにはびっくりした。...</summary>
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    <dc:subject>0600_taiwan</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p>2005.12.27 Tue.　台南に徐明福先生をたずねた。来年12月に行われるある国際会議にお招きしたく、説明に参上したのである（その具体的なプログラム等は１月末頃にはお知らせできる予定）。博士課程の陳凱劭さんと、うちの奥さんが同席したが、偶然が重なって、傅朝卿先生、陳世明先生も加わった。</p>

<p>徐先生はこちらの意図にすばやく反応されるので、説明というより議論という方が近かった。話が一段落つくと、調子にのって僕の個人的な研究の話まで持ち出して議論をふっかけてしまったのだが、それにも本気で乗っかって下さりちょっと感激。</p>

<p><img alt="chengkong01.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/chengkong01.jpg" width="300" height="225" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>みなさん口を揃えてこの後パーティだと言うので何かあるのかとたずねると、君たちも遠慮するな、まあまあと連れて行かれたのが建築史系研究室の忘年会。大学の教室に20人ばかりの院生が集まっていた。傅朝卿先生がノリノリなのにはびっくりした。<br clear="all"></p>]]>
      <![CDATA[<p><img alt="chengkong02.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/chengkong02.jpg" width="300" height="225" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>忘年会の後、キャンパスの中庭で。成功大学建築系の２年生（！）の実習。共同で半期かけて事前の研究を重ね、図面を引き、模型をつくり、そして実物を建築する（ただいま建築中）。こんなデコンみたいなのじゃなくても、とは思うが、こういう勉強＝教育ができることは本当に羨ましい。<br clear="all"></p>

<p>ところで陳凱劭さんには徐先生への口添えをお願いしていたのだけど、それだけじゃなく、27日は朝から台南市内の修復現場などを案内してもらい（古都台南は修復ラッシュ）、昼は老舗として名の知れた「再発号」という小さな粽屋さんに連れて行ってもらった。○○号っていうのは昔の屋号表記。この粽、ものすごいボリュームで美味い。午後は街屋の内部を２棟ばかり見せてもらった。本当にありがとう。</p>

<p><img alt="20051228_tainan.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/20051228_tainan.jpg" width="300" height="400" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>翌28日の午前は陳世明先生の手配で安平（オランダの植民港市 Zeelandia がつくられたところ）に近い海沿いの漁村を、そして午後は旧知の陳信安さんの案内でもうひとつの集落を廻った。お目当ては三合院の内部。</p>

<p>というわけで、総舗研究の方も望外のサンプルがコレクション入りした。おじさん、おばさんの貴重な証言も。思いのほか豊かな（しかし微細な）地域差・個体差がきっと何かを語りはじめるはず。１年を目処に最初のまとめをしたい。まずは研究助成をとるぞ絶対。</p>

<p>（写真：台南市安平区漁光路）<br clear="all"></p>

<p><img alt="20051228_tainan02.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/20051228_tainan02.jpg" width="300" height="225" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>というわけで、いつものように短時間でたくさんの人に導かれて、たくさんの人に巡り会った。これだから台湾はやめられない。</p>

<p>（写真：台南市南区喜樹路）<br clear="all"><br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>台湾神社跡地のゆくえ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000378.html" />
    <modified>2005-12-25T14:16:13Z</modified>
    <issued>2005-12-25T23:16:13+09:00</issued>
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    <created>2005-12-25T14:16:13Z</created>
    <summary type="text/plain">2005.12.25 Sun.　ある方のお口添えで、台湾神社跡地に関する貴重な証言者にお会いすることができた。何是耕さん。86才だというのに本当にお元気で驚嘆した。日本から『植民地神社と帝国日本』をお送りしてあった。何さんも楽しみにされていたようで、圓山大飯店（Grand Hoterl）の金龍庁を予約して下さった。たまたま家内の生まれ育った地域が何さん夫妻の郷里に近いということもあり、互いに夫婦で、ということになった。 現在の剣潭山麓（link to GoogleMap）。東西に流れる基隆河のすぐ南に台北市街の中心部が広がる。写真左、基隆河のくびれの上に黄色い大きな入母屋屋根が見えるだろうか。これが圓山大飯店だ。よく知られるように、植民地期の台湾総鎮守・官幣大社台湾神社の跡地に建っている。私たちは、かつて台湾神社の本殿があったあたりから、台北市街を眺めながら、飲茶と会話を楽しんだ。 左図は植民地末期の同じ箇所を復元したもの（青井作成）。 A＝台湾神社境内（伊東忠太設計） B＝台湾神社新境内（内務省系技術者を中心とする設計、ほぼ竣工するも1944年10月に旅客機墜落で炎上） C＝台湾護国神社 D＝国民精神研修所 東には運動場が広がり（ここでは一部のみ表示）、河の南側の緑地公園とあわせて、全体が一種の風致地区になっている。市街地をのぞむ丘陵の緑地が、広大な神域として整備されていたのである（そのプロジェクトは着手から半世紀近くになろうとしていた）。...</summary>
    <author>
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    <dc:subject>0600_taiwan</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p>2005.12.25 Sun.　ある方のお口添えで、台湾神社跡地に関する貴重な証言者にお会いすることができた。何是耕さん。86才だというのに本当にお元気で驚嘆した。日本から『植民地神社と帝国日本』をお送りしてあった。何さんも楽しみにされていたようで、圓山大飯店（Grand Hoterl）の金龍庁を予約して下さった。たまたま家内の生まれ育った地域が何さん夫妻の郷里に近いということもあり、互いに夫婦で、ということになった。</p>

<p><img alt="jiang_tan.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/jiang_tan.jpg" width="393" height="274" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>現在の剣潭山麓（<a href="http://maps.google.com/maps?ll=25.078447,121.526084&spn=0.010081,0.015982&t=k&hl=ja">link to GoogleMap</a>）。東西に流れる基隆河のすぐ南に台北市街の中心部が広がる。写真左、基隆河のくびれの上に黄色い大きな入母屋屋根が見えるだろうか。これが圓山大飯店だ。よく知られるように、植民地期の台湾総鎮守・官幣大社台湾神社の跡地に建っている。私たちは、かつて台湾神社の本殿があったあたりから、台北市街を眺めながら、飲茶と会話を楽しんだ。<br clear="all"></p>

<p><img alt="taiwan_jinja.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/taiwan_jinja.jpg" width="393" height="284" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>左図は植民地末期の同じ箇所を復元したもの（青井作成）。</p>

<p>A＝台湾神社境内（伊東忠太設計）</p>

<p>B＝台湾神社新境内（内務省系技術者を中心とする設計、ほぼ竣工するも1944年10月に旅客機墜落で炎上）</p>

<p>C＝台湾護国神社</p>

<p>D＝国民精神研修所</p>

<p>東には運動場が広がり（ここでは一部のみ表示）、河の南側の緑地公園とあわせて、全体が一種の風致地区になっている。市街地をのぞむ丘陵の緑地が、広大な神域として整備されていたのである（そのプロジェクトは着手から半世紀近くになろうとしていた）。<br clear="all"></p>]]>
      <![CDATA[<p>詳しく書いていると大変なのでやめるが、台湾神社→圓山大飯店だけでなく、一度造成した土地の形態はなかなかに強い規定力を持っていることがここでも見てとれる。</p>

<p>さて、台湾神社は官幣大社（＝国が経営管理する官社）であり、その境内も国有地なので、光復後も国有地として引き継がれる。そこに「台湾大飯店」と称する国営ホテルを建設し経営するプロジェクトを任されたのが何是耕さんだ。何さんは日本に留学され、日本で終戦を迎え、1946年に郷里の台中に戻り、1949年にこのプロジェクトに関与される。だから台湾神社の終戦直後の様相などはほとんど御存知ない。むしろ興味深いのは、植民地時代に様々なかたちで総督府が蓄積していった土地資産が、植民地支配の終焉とともにどのような意義を持ちえたのか、その結果として何が起こってきたのかということだ。何さんは「公開して構わない」とおっしゃるが、私自身がもう少し理解してからにすべきだろう。帰国前にもう一度お会いする約束をした。</p>

<p>おまけ。下の写真は昭和初期の台湾神社境内（まだ台湾神社の新境内とか護国神社の建設がはじまっていない）。この時点ですでに「神苑」の植生もずいぶん常緑樹に植え替えられてきているし、参道とか庭園とか池とか、色々整備されている。写真中央からやや左寄り、一番上のところに、神明造の本殿が見える。<br />
<img alt="taiwan_jinja_airial.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/taiwan_jinja_airial.jpg" width="400" height="305" border="0" /></p>

<p>食事の後、何さんはわれわれを御自宅にまで案内してくださった。貴重な資料を拝借あるいは頂戴した。何さんの家にも、和室（総舗）があった（植民地期からの生活習慣の混交に根ざすものと、最近は考えている）。</p>]]>
    </content>
  </entry>
  <entry>
    <title>それではホントに行ってきます。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000377.html" />
    <modified>2005-12-23T21:17:45Z</modified>
    <issued>2005-12-24T06:17:45+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2005:/~aoao/mt//4.377</id>
    <created>2005-12-23T21:17:45Z</created>
    <summary type="text/plain">参りました。記録的な大雪。 朝8:30に到着した中部国際空港をあとにしたのは、夕方5:30だった。開港以来初の滑走路閉鎖とのことで、航空会社（某日本航空）の対応も悲惨。こういう場合は飲み物や食事を出すタイミングというのが習慣的にあるのだけど、正午をまわり、2時過ぎになってようやく、よく冷えた中華風焼きそばが出てきた（出国後の空間にまともなレストランはない）。 色々、教えられた。「アクシデントを利用せよ」（ビリーのグッドアドバイス／acetate）というのとはちょっと違うのだろうが、写真もとりまくったし、空港や航空会社の脆さとか、考えたこともない空港の構造を知った。 欠航が決まり、出国取り消しの手続きが開始されると日本人はさっさと帰ってしまった。飛行機が飛ばない以上、空港と航空会社は、客をチェックイン前の状態にすっかり戻さなければならないらしい。空港の出発ロビーというのは、「どの国でもない場所」だから、客はそこから日本国へと「送還」されるのである。まず入国審査を通って、出国スタンプの上に「出国取消につき本証印を撤回する／VOID」というスタンプを重ねられる。出国審査と入国審査は別のフロアにあって普段は異国経由で結ばれているのだが、それを短絡するバイパスがちゃんと計画されている（まあ別にどうということはなくて、本来は飛行機に乗るところを、まるで降りてきたように反対方向に進めばよいだけなのだが、何となく興奮する）。それで、まるでいま帰国したみたいに、ベルトでぐるぐるまわっている荷物も自分で受け取り、税関の担当官に「おつかれさまでした」などとやさしい言葉をかけられながら普通に追い出されるわけである。...</summary>
    <author>
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      <email>aoao_fay@mac.com</email>
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    <dc:subject>0400_free</dc:subject>
    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p><img alt="centrair007.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/centrair007.jpg" width="300" height="400" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>参りました。記録的な大雪。</p>

<p>朝8:30に到着した中部国際空港をあとにしたのは、夕方5:30だった。開港以来初の滑走路閉鎖とのことで、航空会社（某日本航空）の対応も悲惨。こういう場合は飲み物や食事を出すタイミングというのが習慣的にあるのだけど、正午をまわり、2時過ぎになってようやく、よく冷えた中華風焼きそばが出てきた（出国後の空間にまともなレストランはない）。</p>

<p>色々、教えられた。「アクシデントを利用せよ」（<a href="http://acetate-ed.net/bookdata/005/005.html">ビリーのグッドアドバイス／acetate</a>）というのとはちょっと違うのだろうが、写真もとりまくったし、空港や航空会社の脆さとか、考えたこともない空港の構造を知った。</p>

<p>欠航が決まり、出国取り消しの手続きが開始されると日本人はさっさと帰ってしまった。飛行機が飛ばない以上、空港と航空会社は、客をチェックイン前の状態にすっかり戻さなければならないらしい。空港の出発ロビーというのは、「どの国でもない場所」だから、客はそこから日本国へと「送還」されるのである。まず入国審査を通って、出国スタンプの上に「出国取消につき本証印を撤回する／VOID」というスタンプを重ねられる。出国審査と入国審査は別のフロアにあって普段は異国経由で結ばれているのだが、それを短絡するバイパスがちゃんと計画されている（まあ別にどうということはなくて、本来は飛行機に乗るところを、まるで降りてきたように反対方向に進めばよいだけなのだが、何となく興奮する）。それで、まるでいま帰国したみたいに、ベルトでぐるぐるまわっている荷物も自分で受け取り、税関の担当官に「おつかれさまでした」などとやさしい言葉をかけられながら普通に追い出されるわけである。<br clear="all"></p>]]>
      <![CDATA[<p>しかし、危機は人の置かれた状況の差異と、それをもたらしている区別をはっきりさせてしまう。多くの日本人は、この何となく冷たいシステムに従って帰路についたのだが、そうはいかないのが外国人だ（我々の便の場合ではほとんど台湾人だった）。行き場が決まらなければ動くわけにもいかない。翌日の便に乗れるよう確約してくれれば、動き方も決められる。が、それも「お客さんの方で個別に予約を取り直していただく他ございません」と、そういうことらしい。翌日から３連休だってのに、そうそう簡単に席などとれるはずがない（空席は必ずあると、ビリーなら励ましてくれるのだろうが・・・）。そういった保証は一切しないと約款で決められているので仕方ないとはいえ、もし3日も4日も足止めを食らったりしたらただごとではない。</p>

<p>朝から食事もとれず血糖値が下がって皆カンカン。とはいえ、さすがは台湾人、デモよろしく慣れない職員相手に集団で対抗する。決してイヤミではなく、本当に上手だ。修学旅行の高校生を引率する教員たちも、生徒たちの前で声を荒げつつも、それがパフォーマンスであることを常に自覚しているし、生徒たちもそれに拍手を送って参戦する。やはり民主化闘争のなかで鍛えられているというべきか。</p>

<p>しかし、結局は翌日に臨時便を出すなどの対応はないようで、台湾の人たちもそれぞれに別便（翌日の関空発とか）を手配できそうな様子だった。我々もこの集団に付き合う意味がなくなったので（何してたんだろうかと後で思う）、とにかく「帰国」することにした。「どこの国でもない場所」があるということを前々から教え込んである息子も（親がこういうこと教えるのが好き）、普通はそれが外国につながっているのに、日本に帰らされてしまって、理屈はよく分かっているもののやや納得がいかない様子。幸い、予約センターとの電話のやりとりで、翌々日の便がとれた。</p>

<p>実は、「手ぶらチェックイン」とか、そんな名前のサービスがあって、荷物は自宅から宅配便でチェックインカウンターまで運ばれてそのまま飛行機にのっかり、到着先のベルトからピックアップするまで我々はノータッチで済むようにできる。今回もそれを利用した。それなのに、家族分の大量の荷物を全部受け取らされて途方にくれる。面倒なので一時預かりサービスに預けたら4500円もとられた。実質の預かり期間は１日半くらいのなのに、日付が変わるたびに「１日」とカウントするので、３日分なのだ。しかも、手ぶらチェックインサービスの業者と、一時預かりの業者は同一。何とかならんかねー、こんな時くらいは。そうつぶやきながら幾度となくため息をついた一日であった。</p>

<p>でも雪の空港というのも滅多にはお目にかかれないので正直言って楽しかった。欲をいえば広大な滑走路の雪かき風景を見たかった（笑）。どうやら中部国際空港は除雪車を備えていないらしいのだが。</p>

<p>自宅に帰って、翌日は家族で雪ダルマをつくった。僕自身が20年ぶりくらいなのではないだろうか。先日<a href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/monokenblog/archives/000374.html">ものけん忘年会</a>でメンバーが持ってきた荒巻鮭の縄を食べた分だけほどいて、それを適当に切って目・口と手をつくった。それが昨日のこと。というわけで本日、ホントに行ってきます。</p>

<p><img alt="centrair001.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/centrair001.jpg" width="400" height="295" border="0" /></p>

<p><img alt="centrair002.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/centrair002.jpg" width="400" height="300" border="0" /></p>

<p><img alt="centrair006.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/centrair006.jpg" width="400" height="300" border="0" /></p>]]>
    </content>
  </entry>
  <entry>
    <title>『世界住居誌』届く。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/000376.html" />
    <modified>2005-12-17T17:06:12Z</modified>
    <issued>2005-12-18T02:06:12+09:00</issued>
    <id>tag:semi.uhe.ac.jp,2005:/~aoao/mt//4.376</id>
    <created>2005-12-17T17:06:12Z</created>
    <summary type="text/plain">布野修司編著『世界住居誌』（昭和堂、2005年12月／定価3,000円＋税）が刊行されました。 世界のヴァナキュラーな住居をコンパクトな一冊に。世界をいくつかの地域に分け、見開き2ページずつで特徴的な住居を紹介。序章「地球に住む」は、地球上の多様な住居を俯瞰的にみるための視座を提供してくれる。他にも lecture や column 、それに膨大な参考文献リストが役に立つ。 たくさんの執筆者による共著。僕はラテンアメリカ（中南米）のところに少し書いています。...</summary>
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      <url>http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/</url>
      <email>aoao_fay@mac.com</email>
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    <content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/">
      <![CDATA[<p><img alt="houses_across_the_world.jpg" src="http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/mt/archives/houses_across_the_world.jpg" width="200" height="283" border="0" valign="top" align="left" hspace="5"/>布野修司編著『世界住居誌』（昭和堂、2005年12月／定価3,000円＋税）が刊行されました。</p>

<p>世界のヴァナキュラーな住居をコンパクトな一冊に。世界をいくつかの地域に分け、見開き2ページずつで特徴的な住居を紹介。序章「地球に住む」は、地球上の多様な住居を俯瞰的にみるための視座を提供してくれる。他にも lecture や column 、それに膨大な参考文献リストが役に立つ。</p>

<p>たくさんの執筆者による共著。僕はラテンアメリカ（中南米）のところに少し書いています。<br clear="all"></p>]]>
      
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