台湾

台中発 - 東京行の通し切符で ----- 途切れぬ線のドキュメント。

2006年01月20日

grand_hotel.jpg遅くなってしまったが、昨年末(→こちらを参照)につづき、年明けの1月6日に何是耕さんに再会した。その折のインタビューについてかいつまんで報告。

植民地支配の遺産が、解放後の台湾でどのような道を辿り、どのように意味を転じていくのか、その克明なドキュメントのひとつを聞くことができた。何さん自身のライフヒストリーもたいへん興味深い。「台中発・東京行き」の通し切符(!)の話とか、本当はディテールがすごく面白いんだけど今回は割愛。


(写真は20060107撮影。圓山大飯店の本館。そのあたりに台湾神社の拝殿から本殿にいたる中心部分があったと思われる。撮影者のいる駐車場のあたりが旧社務所の位置にあたる。よくみると当時のものと思われる日本風の石垣があった。)

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建築の転写 --- 共同壁(共有される戸境壁)を考える。

2006年01月06日

鹿港の市街のど真ん中で、街屋がひとつ取り壊されていた。こういう端的な状況は、頭を分析的にする力を持っている。いかがか、この壁の存在感。

何が壊されたのか。取り壊された、と言い表される「建物」は、日本での常識とはずいぶん異なる。この場所で次に行われる「建築行為」も、僕らが当たり前に考えているものとは自ずと違う。前にも書いたが、「うわもの」という言葉、すなわち不動産を地表面までとその上の構築物とで切り分ける思想は普遍的なものではない。

20060105_lukang01.jpg
(写真:20050105/彰化県鹿港鎮、以下同)

土地という水平のインフラは、通常は地上物である建築をすっかり相対化し、土地からはみ出さないかぎり、「なんでもあり」にしてしまう。しかし、ここでは建築にとって最も決定的な要素、すなわち戸境壁という垂直のインフラが保存され、それに条件づけられた次の「建築行為」が、都市に一時的に空いた空隙を再び充填する。もちろん、前の建物とは違う。工法が変わる。容積が増す。しかし、よほどの数の「建物」がいっぺんに無くならないかぎり、空間形態を決める原理は転写的に継承されていく。伊勢を思い出す。もちろん同じではない。自己言及が隣の他者を経由するから。

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古都・台南にて

2005年12月28日

2005.12.27 Tue. 台南に徐明福先生をたずねた。来年12月に行われるある国際会議にお招きしたく、説明に参上したのである(その具体的なプログラム等は1月末頃にはお知らせできる予定)。博士課程の陳凱劭さんと、うちの奥さんが同席したが、偶然が重なって、傅朝卿先生、陳世明先生も加わった。

徐先生はこちらの意図にすばやく反応されるので、説明というより議論という方が近かった。話が一段落つくと、調子にのって僕の個人的な研究の話まで持ち出して議論をふっかけてしまったのだが、それにも本気で乗っかって下さりちょっと感激。

chengkong01.jpgみなさん口を揃えてこの後パーティだと言うので何かあるのかとたずねると、君たちも遠慮するな、まあまあと連れて行かれたのが建築史系研究室の忘年会。大学の教室に20人ばかりの院生が集まっていた。傅朝卿先生がノリノリなのにはびっくりした。

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台湾神社跡地のゆくえ

2005年12月25日

2005.12.25 Sun. ある方のお口添えで、台湾神社跡地に関する貴重な証言者にお会いすることができた。何是耕さん。86才だというのに本当にお元気で驚嘆した。日本から『植民地神社と帝国日本』をお送りしてあった。何さんも楽しみにされていたようで、圓山大飯店(Grand Hoterl)の金龍庁を予約して下さった。たまたま家内の生まれ育った地域が何さん夫妻の郷里に近いということもあり、互いに夫婦で、ということになった。

jiang_tan.jpg現在の剣潭山麓(link to GoogleMap)。東西に流れる基隆河のすぐ南に台北市街の中心部が広がる。写真左、基隆河のくびれの上に黄色い大きな入母屋屋根が見えるだろうか。これが圓山大飯店だ。よく知られるように、植民地期の台湾総鎮守・官幣大社台湾神社の跡地に建っている。私たちは、かつて台湾神社の本殿があったあたりから、台北市街を眺めながら、飲茶と会話を楽しんだ。

taiwan_jinja.jpg左図は植民地末期の同じ箇所を復元したもの(青井作成)。

A=台湾神社境内(伊東忠太設計)

B=台湾神社新境内(内務省系技術者を中心とする設計、ほぼ竣工するも1944年10月に旅客機墜落で炎上)

C=台湾護国神社

D=国民精神研修所

東には運動場が広がり(ここでは一部のみ表示)、河の南側の緑地公園とあわせて、全体が一種の風致地区になっている。市街地をのぞむ丘陵の緑地が、広大な神域として整備されていたのである(そのプロジェクトは着手から半世紀近くになろうとしていた)。

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しつこいですが総舗。

2005年10月07日

zuo_01.jpg(高雄市左營/20050916撮影)

ある民家(三合院)の壁面に施された門額。右の小さな文字列に、「大正甲子孟春」とあるのが見えるでしょうか。「甲子」は干支(60年サイクル)で示される年を、「孟春」は暦で分節されたシーズンを意味しています。この例では、1924年初春ということです。

年・季節の前には、必ず元号が入ります。「乾隆」とか、皇帝の名ですね。しかし1924年といえば、中国は国民党時代がはじまり、清朝はすでに滅びている。というより、台湾は日本の植民地ですから、ここでは「大正」となるわけです。これは漢人にとっては至極当然な年記法で、その習慣が生き続けているがゆえに、日本の天皇の名(元号)が入らなければならない。

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帰国しました。

2005年09月24日

2005年9月24日(土)、昼過ぎまでに台北での所用をすませ、夕方の便で帰国しました。
今回は約7週間の長い海外となりました。ご面倒をおかけした皆様、申し訳ありませんでした。

彰化の都市史研究は、近くひとつのカタチになるはずです。

このブログでも紹介していますが、次の展開も準備中です。住居に視点を移して、植民地期の無名な環境の変容過程についてさらなる追求を続けたいと思います。そのうちに最初のフレームをまとめてお見せしたいと思っています。

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地面はホントに上昇する。

2005年09月20日

cchen.jpg(高雄縣岡山付近/20050916撮影)

陳正哲先生(南華大学)と2人で、あるブツを見るために左営(高雄市)に行きました(その報告はあらためて)。帰路、車の窓から赤煉瓦のショップハウスが見え、「何だかとてもヘンだ」「あれは確かめなければならない」(ホントにそういう口調)ということになって車を止めました。

建物が、(実物なのに!)低いのです。人体寸法にかかわることなので、普通より数十センチも低いと大変な違和感です。というか、亭仔脚(歩廊)のアーチを通ろうと思ったら首ごと刈られてしまいますから。

家の人にも聞きましたが、やはり道路面が上昇したようです。道路は上へ上へと舗装を重ねていくので、だんだん上昇していくものだということは知っています。それにあわせて、建替えのたびに敷地のレベルも上げていくのですが、この家はたぶん80年くらい建て替えていないので、建物が下から埋まってきたわけです。

モデルの陳正哲さんも、とても楽しそうです。

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眠床(ベッド)と和室のあいだ その3

2005年09月12日

soho_jan2.jpg(彰化県員林・20050816撮影・・・夜です。)

こういう三合院のなかに・・・

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眠床(ベッド)と和室のあいだ その2

2005年09月10日

昨日の事例、分かっていただけたでしょうか。それとちょうど反対の例を、ついでに紹介しておきます。

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眠床(ベッド)と和室のあいだ

2005年09月09日

soho_drawing.jpg8月頭から台湾に来ているが、本来の調査の合間をみつけては、個人的なつながりや偶然のツテをたどって、総舗(台湾漢人の家につくられた、高床の和室のような設備)をみてきた。総舗のある家を15棟ほど、総舗そのものの数にすればだいたい40くらいか。そのうち半分くらいは簡単な実測をした(手伝ってくれたY君、K君、多謝)。

いろいろ課題も浮かび上がってきた。サンプルをひとつ増やすたびに、またひとつ課題が増える。いくつもの課題が立体的に組み上がって、研究のフレームワークを指し示す。フィールドワークの醍醐味はこれです。

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大地上的居所・金門島

2005年08月11日

20050808-11 昨夏につづき、2度目の金門島(→予備知識はこちら)。
金門島の集落建築ガイド『大地上的居所』の日本語訳出版の打ち合わせを二日日に行う。著者の江柏煒先生と、発行者・編集事務局である金門国家公園のスタッフ、そして訳者はうちの奥さんと僕。難しいのは地方語と北京語の混在。それを適宜日本語に訳していくと、訳せないものが残るのでさらなる混在を招く。そのあたりの方針や、図解入りキーワード集を巻末に載せることなどを江先生と一緒にテキパキと決めていく。9月でいったん脱稿。それから推敲、註・図解の作成と進める予定。ついでに別のパンフレットの翻訳も依頼され引き受ける。

翻訳中の日本語版、残念ながら今のところ日本で売る予定はないのだけど、なんとかならないか検討したいと思ってます。さて、本とはちょっと関係ないんですが、以下金門ディテール特集ということで。

kin01.jpg金門島のかつての中心都市・旧金城に残る古びた街並みから。明代に形成された市街とのことで、これから保存整備を講じる計画だという。

手前の家の壁、花崗岩と磚(煉瓦)を継ぎはぎにしているの分かりますか。この街の建物はだいたいこんな感じ。でもこれ、単純にヴァナキュラーなものの魅力とも言い切れないようです。

台湾海峡(台湾と大陸福建との間)は倭冦のような海賊集団の活躍が盛んなところで、17世紀にはそこにほとんど海賊まがいのポルトガル人、スペイン人、オランダ人などが加わる。さらに清に押されて海のゲリラになっていた鄭成功も明の再興を叫んで暴れまくる。清朝は、この海域一帯が鄭氏勢力の拠点となるのを防ぐために、海岸線から30華里以内については居住を禁じ、建築物を破壊するよう命じた。これでは金門島はどこにも住めないので、住民は家を破壊したうえで大陸へ移住する。この「遷界令」が解かれた後、金門に戻ることを選んだ者たちは、崩壊した家の資材を適当に集め、手探りで積み直し、家を再構築した、ということなのだとか。こりゃ面白い。

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限界の街、大渓

2005年08月07日

(台湾に来ていますが、調査やら原稿書きやらで、このブログもう一ヶ月も書いていません。ああ情けない。でも色々お伝えしたいことはあるので、なんとか頑張って、少しずつ遡ってアップしてまいります。・・・20050902記)

dashi01.jpg2005.08.06-07 大渓(桃園縣)の街並みをたねずた。

雑誌『アジア遊学』10月号に、台湾のバロック風ショップハウスについての原稿を依頼されていたのだけれど、どうも自分自身に生々しい感じが湧いてこないので、わがままを言って〆切を少し延ばしてもらい、大渓へ取材に出たという次第。2日間だったが、いろんな人に出会い、いろんなモノに出会った。

この街は、1912年公布の市区計画に基づいて改造された(1919年〜20年竣工)。その折に、既存のショップハウスの一進目(奥行き深く展開していく構成の、一番オモテ側の一棟)をかなりの部分まで取り壊し、新しい道路境界線に沿って内側へ決められた奥行きの「亭仔脚」(歩廊)をつくり、なおかつ新しいバロック風の顔=「牌楼」をつくった。亭仔脚と牌楼、これが大渓の街並を特徴づける。

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台湾調査迫る。その前に原稿、もっと迫る。

2005年07月28日

今夏の台湾調査は8月2日〜9月24日の予定(科研費)。いつもよりかなり長い。ゼミのK君がバリバリ働いてくれるというので楽しみ(笑)。

とはいいながら、出発の前はいつも原稿に苦しむ。
最近は複数の原稿を同時に書いていて、暇がなくてどれも思うように進まないが、書きはじめると楽しい。
台湾の総舗(ツォンポー)の話を書いた x-knowledge は校正も終わり、8月10日に出るとのこと(台湾に送ってもらおうかな)。
いま差し迫っているのは acetate の都市シリーズ(彰化が単行本になるなんて幸せ!)、金門島(福建省)の集落・建築ガイド『大地上的居所』の日本語訳(妻との共同)、大林都市研究財団の報告書、インドネシア科研報告書、それから雑誌『アジア游学』のショップハウス論。
それぞれ終わったらまた報告します。

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東アジア近代史学会 研究大会 シンポジウム 2005年6月25日(土)

2005年06月24日

東アジア近代史学会 研究大会 シンポジウム  (6月25日(土))で、「堆積する無意識 --- 日本植民地支配と都市の記憶」と題して話をします。

(6月27日追記) シンポジウム行ってきました。テーマは「戦争と支配の記憶と記録」。文献実証主義の牙城みたいな歴史学界に、モノから考える考古学と建築学からの成果をぶつける、という主催者側の仕掛けでした。僕は、台湾でやっている植民都市研究から、「記憶」をめぐって3つのフェーズを取り出して示しました。「切断」、「再組織化」、「浸透」。果たして聴衆のみなさんにアピールするか(というか言語として通じるのかどうか)不安でしたが、いちおう主旨だけは外さなかったようで、熱心に聞いていただけたように思います。懇親会でも色々な方から反応をいただけました。
機会を与えてくださった檜山幸夫先生に感謝いたします。
それから当日最後までお付き合いいただいた松金公正さん、角南聡一郎さん、ありがとうございました。

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GoogleMapsでお空を暴走。

2005年06月23日

石川初さんのブログGoogleMapsを知り、しばしネット・フライトで暴走してしまった(注・・アメリカ以外は地図がないので、右肩のmapをsatelite に切り替えて衛星写真を楽しむ)。

さっそく僕のフィールド、台湾の彰化を確認したらフル・ズームで表示できて感激。それでもう一度石川さんのブログを読み返してみたら、もうすでに彰化を見て分析しておられ、またしても感激(でも彰化じゃないすよ、そこは! )。そいでもって、僕がつくった100年前の彰化縣城の復元図と重ねて gif アニメーションにしてみた。

changhua_layered.gif

黄色いのが寺廟(地誌定数)。薄いブルーは養殖池(ひとつも現存せず)。市街地を囲むいびつな楕円が城壁。4つの丸印が城門位置。1906年以降、市区改正で新しいグリッド状の街路がつくられ、それにアダプトするように新しいショップハウス=透天(位相定数)が増殖してきた。分かるかな。

(20050628追記)こちらもご覧ください。(追記おわり)

ついでに大陸東南海岸(福建省あたり)を旅行してみた。だって、台湾都市の原型はそのあたりにあるはずだから。海岸線をテキトーに飛び回り、まだ見ぬプロトタイプの数々を見下ろしてみると、「市区改正」されていない小都市がゴロゴロ。街路パタンも多様だし、家々の屋根は赤茶色。都市のど真ん中に池や畑がみえたりもする。これって僕が復元した100年前の彰化だよ(誤解を恐れず言ってます)。むむむ・・・ホントに行かねばなりませんな。

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台北の「廻はる家」

2005年06月01日

白倉 古川君の家の近くぢゃなかったですか、大正街に、移動するやうな家が出来たのは・・・

尾辻 古川君の近くぢぁない、ずっと奥の方□□の傍で、太陽の光線を取り入れる為に回転するのでした。

古川 廻はりましたヨ初めは。終ひには中心が取れないのですね。

畠山 私は学校の先輩ですから時々遊びに行きましたが行く度に玄関が違って居ましたね。

井手 あれは私は一寸面白いと思った、第一期に出来た大正街の住宅地の六條から五條の奥ですね。

白倉 さう云ったやうな廻はる家を建てたの外国にも例があるんだろうか。

井手 外国の病院の日光浴をする小さいのにはある、然しあんな日本造りで堂々たるものが廻はると云ふものはない。

(「改隷以後に於ける建築の変遷(二)」『台湾建築会誌』16-1、1944年 より)

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人に無関心な都市に、人はどう関わるのか。

2005年04月10日

(2005年4月12日 付記)すごいフォーラムだったのに、なんか凡庸なことしか書けなくてげんなりしてたのだけど、本日、都市計画の授業初日に、先日みなさんがお話された事例のエッセンスを噛み砕いて話したところ、ものすごく反応がよくてびっくりした。相手は2〜3年生なのに。1年に2〜3回あるかないかの会心の授業になってしまいました、意図を超えて。

なお、このフォーラムのもっと生き生きとしたまとめをランドスケープデザイナーの石川初さんが書いていらっしゃいますので、そちらも是非参照ください。

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2005年4月9日、千年持続学第5回フォーラム「都市つくるものたち − 都市の血、都市の肉」に参加しました。午前10時から午後4時まで、5つの報告があり、さらに2時間のディスカッション。正直、過酷な一日。内容も濃密で驚きと発見に満ちていました。精根尽きるほど疲れましたが、緊張感を楽しみました。希有なシンポジウムだったことは間違いありません。

「都市は自己の組織をすでに持ち自ら展開する」(企画者・中谷さんによるテーゼ)

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帰国しました。

2005年03月31日

shako1.jpg3月31日、帰って参りました。
楽しかった、フィールドは。
でも書けていない、いろいろ原稿が。

全然脈絡ないですが、写真は彰化市の扇形車庫(2005年3月19日撮影)。
もちろん、日本植民地時代の建築。かっこいい。
しかも現役です。

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投稿者 aoao

四枚壁事件

2005年03月30日

boundary1.jpg彰化縣北斗。2005年3月20日撮影。

これ、一見するとただ雑然とした街角の1コマなんですが、これがヘンであることに気づいたウチの家内の観察眼はなかなかのものです。僕が少し離れたところで地籍図片手に街路の現状なんぞを記録しておりましたら、彼女はいつの間にかインタヴューをはじめていまして、大声で呼ばれました。

実はあるきっかけで、小さな場所に複数の力が働き、衝突して、何とか折り合いがついたものの、まだ何か脅迫的な心理から逃れられない、そんな緊張のみなぎった状態なのです。だって、わずか60〜70cmくらいの間に、壁が4枚並んでいて、どの壁も長さは数十mに及ぶのです。異常です。

さて、ここで問題(笑)。

Q.この1枚の写真から、この場所におこったであろう出来事を再構成しなさい。

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(再)誰ですか、出っ張ってるのは?

2005年03月29日

*2005年3月16日付で、とりあえず写真だけをupしたのですが、文章を書いたので繰り上げます。

expose1.jpg淡水鎮重建街、3月16日撮影。

両側に4階建前後のビルが壁面を揃えて建ち並んでいますが、中央に、上が斜めになった壁が飛び出して、逆光で黒く見えているのが分かるでしょうか。たまたま近くの大通りからこの風景を見て、思わず駆け寄りました。

そうです。出っ張ってるのではなく、みんなが引っ込んだのです。お察しのとおり、都市計画道路の建設が思うように進捗せず、どうやら膠着状態のようです(計画は植民地期ではなく、戦後のものだと思います)。しかし、興味深いのはそれだけではありません。

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(再)こんなにも違う・・・ 市場が楽しいワケ

2005年03月28日

*2005年3月16日付の記事を書き直しましたのであらためてupします(というか前は写真しかなかったので文章を書きました)。

tamsui_ron1.jpg淡水龍山寺前。2005年3月16日午後5時。

夕方にはこんなに寂しくなる廟前も、午前中は・・・(つづきを開く

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台北 − 100万人の図像学

2005年03月26日

demo00.jpg去る3月14日に中国全人代が採択・施行した、いわゆる「反国家分裂法」に対する抗議デモが、3月26日に行われました。総統府前の広場に100万人を集めようと、総統自らが呼びかけた異例のデモです。目標値を大きく下回るのではないかとの懸念もありましたが、一方で、実際に100万人が集まる場合、台湾全国から首都台北に集結してくる人々を、都市は自らに混乱・麻痺を来さぬように処理しうるのか、ある意味で興味深い実験でもありました。

(←画像をクリックすると別ウィンドウで大きく表示されます。1,000×1,395 pixel)

写真は東門より中山北路を。この道路は、植民地時代には「勅使街道」と呼ばれ、剣潭山麓の台湾神社境内に向かって、天皇の勅使や総督を中心とする行列が北上した。2本の植樹帯によって道路を3本の帯に分けた「三線道路」の景観は、台湾の植民統治の象徴でもあった。

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台湾大学大学院「台湾建築・都市史」の講義をしました。

2005年03月25日

reorganize.gif2005年3月24日(木) 14:00〜17:00
「都市改造再考 − 市区改正と区画整理 −」

台湾大学大学院 城郷所(建築與城郷研究所)の講義「台湾建築・都市史」で何か話してくれと、大先輩の黄蘭翔さん(中央研究院台湾史研究所)に頼まれて、3時間の講義をやってきました。せっかくなので、僕が考えている一番新しいところをと思い、1週間前にお伝えしたテーマを少々踏み越えて、4月9日のフォーラム「都市の血、都市の肉」で話そうと思っていることも、おそるおそる披露してみました。

学生の皆さんはたいへん熱心に聞いて下さり、盛り上がった議論は飲み会まで続き・・・、帰宅後は娘の夜泣きで、ヘトヘトです。しかし楽しい1日でした。

市区改正の無意識。形態学的パタンの二重化。自己再組織化の微分的なプロセス。それを可能にする細胞のような単位。地誌的連続と位相的連続(topo-graphical / topo-logical continuity)・・・といったところがキーワードです。これらが瞬間的に伝わるようイラストレートする工夫を、と思いました。

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追跡、「総舗」。

2005年03月23日

zongpo1.jpg以前に、「総舗」のある三合院を紹介したことがあります。総舗というのは、室内で土間より高く床を張った部分のこと。畳を敷く、土間との境界に障子を入れる、天井を張る、押入をつける、といった特徴が伴うことが多いようです。また床は50〜60cm前後とかなり高く、床下は収納などに使われます。日本植民地支配の影響であることは疑いないようで、しかもその浸透の裾野はそうとう広いにもかかわらず、まともな研究がなく、興味を持っていました。今回のフィールドワークでは、この総舗の追跡もひとつのテーマとしました。人に出会うたびに総舗について聞き、残っていれば見せてもらうようにしたのです。

写真は、総舗を取り除いた例です。天井を張っていたことが分かります。戦後に建築した三合院ですら、総舗をつくることが少なくないようですが、近年になってそれを取り除いて土間に戻す家も多いようです。

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3月16日、淡水を歩く。

2005年03月16日

tamsui_shimizu.jpg台北北郊の淡水を、マル一日、歩き回りました。面白い発見や出会いが盛りだくさんの一日で、ヘトヘトです。ここで紹介したい話題もたくさんあり、思わず5つもエントリを入れましたが、時間がないので写真だけです。文章はあらためて。

明日から遠出ですので、5日間ほど失礼します。

ついでながら本日、35歳になりました。
何となく、モノクロで。

*その後、2つのエントリは文章を書いて、繰り上げ up しました。こちらこちら

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こうして生きられる国の方がいい。

manhall.jpg・・・と簡単には言えませんが、でも、やっぱりそう思う。

このマンホールのフタが、彼女の日々の定位置なのでしょう。

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全人代、反国家分裂法を採択・施行。

2005年03月14日

stars.jpg[写真:ロイター/Jason Lee
中華人民共和国・全国人民代表大会(全人代=国会に相当)が、3月14日にいわゆる「反国家分裂法」を採択、さらに即日施行しました(→ ニュース検索)。武力行使という脅しをつきつけて台湾の独立への傾斜を阻止しようとする法律です。代表2901人のうち、棄権その他の5票をのぞき満場一致だそうです(!)。

アメリカはこれに対し反対を、日本は懸念を、ロシアは容認を、それぞれ自国の姿勢として表明していますが、いずれも各国の対中国関係だけでなく、むしろ自国の戦争(あるいは戦争の可能性)を反映するものだと考えられます。

米・日は、先日、安保の目標のなかに台湾海峡を組み込み、台湾の独立派は、「日本が台湾を守る気概を見せた」と歓迎したようです。しかし、それはどうやら怪しいし、日本にとってもようやく中国にノーと言えた、というような単純なものではなさそうです。

僕にとって反分裂法は、それなりのリアリティがあります。端的には、家族に武力が突きつけられたわけですから。しかし、もうひとつ考えるべきなのは、日本に戦争実行の可能性を持たせる口実(のひとつ)にもなりえる点です。

日本政府は明示しないうちに事を進めるのがやり口です。メディアもほとんど自律性がありません。何が何だか、ぼんやりして、だんだんぬるま湯が居心地悪いなあなどと思いはじめたら、いつのまにか自分が戦場にいた、などということになりかねません。

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今回の台湾は3月11〜31日です。

2005年03月11日

2005.03.11 名古屋より台北に入りました。

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(再度お知らせ)都市の血、都市の肉 〜 千年持続学第5回フォーラム 2005年4月9日

2005年03月10日

(付記)ポスターを送っていただいたので再掲というか、今日の日付に動かしました(画像をクリックすると大きく表示されます)。2005.03.10

中谷礼仁さんの企画で、こういう会議が開かれます。中谷さんによる告知はこちら
僕も最近のフィールドワークを、あらためて捉えなおす機会として大事にしたいと思います。報告者のひとりとして、こんなに楽しみに思えるシンポジウムは初めてです。

●タイトル:
都市つくるモノたち〜都市の血、都市の肉(都市の持続性研究フォーラム5)

持続されるのは都市自身である。都市は自己の組織をすでに持ち自ら展開する。
都市を生かすもの、何が都市の血であり、都市の肉か。
気鋭のフィールドワーカーたちが都市生成の不思議をあばく。

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投稿者 aoao

仲良く並んで

2005年01月04日

twin.jpg彰化縣の員林鎮(人口13万人)の旧市街、「北門」と称される地区にて。

右が福徳正神、左が五営将軍の祠。仲良く並んでいて、かわいらしいのですが、これにも都市史的に面白い意味があります。

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投稿者 aoao

市場が埋もれています。

2005年01月03日

market1.jpg台湾中部、彰化縣の員林市街でみつけた市場の建物です。1910(明治43)年竣工。煉瓦造。

この建物、通りには面していません。街路沿いには連棟の街屋(shop house)が建ち並んでおり、そのブロックの内側に、正方形をした市場の建物がすっぽり収まっているのです。だから、都市景観としては不在の遺跡なのです。考えてみると市場というのは、洞窟とか、あるいは美術館のインスタレーションみたいに、基本的には外観がないのです。台湾の地方都市を歩いていると、こういう市場に入り込んで、びっくりすることがあります。

それと、市場には都市の変換メカニズムを支える装置としての意味があるはずです。広場や通りにはりついていた露店や屋台が、都市改造の過程でどこへ行くのか、たぶん誰も実証していないと思いますが、少なくとも市場は改造後の都市において、日常生活を支える最も基本的な消費を受け持ちます。ちなみにウォーラーステインの世界システム論では、<日用品>の生産・流通・消費がつながる範囲を<世界>と呼ぶのでした。組み替えられた都市の<世界>は、路上の商人ではなく、市場によって支えられるのです。

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投稿者 aoao

行ってきました。シンポジウム「被植民都市與建築」

2004年11月27日

01.gif
2004年11月24〜25日、台湾の中央研究院台湾史研究所が主催する国際シンポジウム「第2回 被植民都市與建築」に出席。私は「台湾都市はどう変わったのか − 日本植民地期における都市生活空間の再編あるいは生成」というタイトルで発表しました。反響は上々。もちろん、課題もたくさん頂きました。
報告の内容はいずれHPで公開しますので、しばしお待ちを。とりあえず、図版で雰囲気をみてください。

投稿者 aoao

台風のなか帰国

2004年08月30日

EG284便(15:20台北発) 台風に揺られながら名古屋空港着。
今朝、台北で散髪しました。坊主頭に近いです。3日後にはまたインドネシアなので。
というわけで、今回(20040801-0830)の台湾調査はこれにて終了。

投稿者 aoao

またしても重要人物に・・

2004年08月29日

檜山幸夫先生、栗原純先生、東山京子先生にお会いしました。また、中央研究院台湾史研究所の陳慈玉先生も同席されました。先日昼食をご一緒いただいた松金公正先生のご紹介でした。感謝します。

檜山先生(中京大学)を中心とするグループは、23年前から台湾総督府公文書の所在を確かめ、その目録作成や文書編纂の作業を地道に続けておられます。目標とされている明治期の公文類纂の刊行も終盤に近づいているとのことで、山のようなゲラを持って台湾と日本を往復しておられます。史料のことだけでなく、台湾史のこと、それに僕の都市史研究についても鋭い指摘とアドバイスをいただきました。

投稿者 aoao

金門編 おまけ

2004年08月22日

金門で帽子買いました。

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投稿者 aoao

台湾都市のプロトタイプ?

2004年08月21日

金門(→必要最低限の予備知識)の中心都市・金城を歩くと、いろんな意味で昔の台湾都市はこんな感じだったのではないかと想像を膨らませてくれます。金門の都市は、日本の植民統治を経験していないミンナン都市だからです。

kinmon_myao01.jpgT字路の突き当たりに福徳祠(土地公の廟)。おなじみの空間構成です。やっぱり土地公は愛らしいなあ。

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投稿者 aoao

このショップハウスは泣けます。

2004年08月20日

「金城」は、金門(→必要最低限の予備知識)の中心都市。金門旅行の最終日は、この街をじっくり歩いてみました。

kinmon_sh01.jpgずらりと並ぶ古そうなショップハウス。江先生によれば、この手のもので清の中後期なのだそうです(!) 実際に道光13(1832)年創業と書かれた看板を掲げている店があり、江先生にたずねると建物もその時のものだということでした。スゴイ。

おそらく相当手は入っているのでしょうが、とにかくきちっと実測して記録を残す必要があると思います。

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投稿者 aoao

単姓宗族の村

2004年08月18日

shanho1.jpg金門(→必要最低限の予備知識)で「伝統集落」といえば、単姓血縁宗族の集落。

写真は「山后」という村(王氏の宗族集落)の模型です。集落は山(写真左)を背に、池(写真右外)に面しています。四合院形式の住居が整然と並ぶなか、一列だけ建物と庭の配列がずれているところがありますが、そこに一族の祖先を祀る「宗祠」があります。宗祠はいうまでもなく宗族集落の核です。多少のバリエーションはありますが、金門の宗族集落は、中枢部分ではだいたい似たような格好をしています。

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投稿者 aoao

なぜ台湾人は華僑ではないのか

2004年08月17日

金門(→必要最低限の予備知識)への旅行(8月17〜20日)の初日。台北出身ながら金門に定着して、建築史の研究と、文化財保存やまちづくりを実践している江柏□(=火+韋)先生(金門技術学院)に出会いました。

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当たり前すぎて分からない問題

2004年08月16日

陳正哲さんにお会いしました。

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「日本式」の三合院

2004年08月14日

台湾の義母(家内のお母さん)の実家に、和室みたいなものがあるという話は、前から聞いていて、実は『アジア建築研究』(村松伸監修、INAX出版、1999)にも家内との共同執筆でチラッと書いたのですが、僕自身は実物を見ていませんでした。ところが昨夜、皆が寝静まる頃になって、家内がふとしたことからお義母さんへの聞き取りをはじめて、その家の記憶を図面に描きはじめたのです。僕もウトウトしていたところを起こされて、古いアルバムを繰るのを手伝わされたりしました。そうこうしているうちにだんだん面白くなってきて、もともと翌日は彰化へ行く予定だったのをちょっと変更して、この際だからその家も見に行こうということになりました。

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中央研究院の図書館へ

2004年08月12日

2004.0810-12
中央研究院台湾史研究所(*)の図書館へ。
主な目的は、旧台中州の寺廟台帳(影印)。うち彰化郡、員林郡、北斗郡の主要街(鹿港、員林、永靖、田中、北斗、渓湖、二林)を閲覧。

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街屋いろいろ

2004年08月10日

壁面を道路境界にきちっと揃える。1Fに「騎楼」(アーケード、歩廊)がある。歩廊の内側にお店があり、奥や上階は居住スペース。こういうのを台湾では街屋と言うことが多い。世界共通に通用する言葉としてはショップハウス(shop house)というのがある。ショップハウスが並ぶのを見たら、そこは紛れもなく町場、つまり都市的な空間ということ。

騎廊は東南アジア全域のチャイナタウンなどにみられるもので、台湾では日本の植民地政府が都市計画と建築規制のなかに位置づけ、戦後の都市計画関連法規にも受け継がれている。

sh_tanaka2彰化縣・田中

これがだいたい明治末から大正期らしい。これのもっと古い形式がずらりと残った、日本でいえば町並み保存のエリートみたいな街もあるが、この田中街は普通に近代化してきた街としては古い街屋がたいへんよく残っていて驚いた。

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台湾のモノ研究を開く人

2004年08月08日

今夜、二人の重要人物に会いました。
ひとりは角南聡一郎さん。奈良の元興寺文化財研究所におられる考古学者ですが、台湾に通って植民地期の物質文化の研究を精力的に進めていらっしゃいます。墓、鏝絵、畳、・・・圧倒されました。
もうひとりは片倉佳史さん。フリーのライターとして台湾中を走り回っておられます。その取材量は驚異的。『台湾日治時代遺跡』(台北・玉山社)の著者。最近、『台湾土地・日本表情』(同)を刊行されました。
お二人とも日本人ですが、文献史学の精緻化へとなだれ込む台湾の研究状況にあって、貴重な存在であることは間違いありません。
誰もふれない面白い領野がまだまだ残されていることを知るべし。

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廟前広場の興亡

2004年08月07日

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台湾都市の便覧

2004年08月06日

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都市を地域でみる

2004年08月05日

2004.08.04-05
彰化県内の主要な街を見て廻る。彰化市(かつての彰化縣城)についてはすでに実証的な復元作業を進めつつあり、19世紀までの都市が市区改正によってどのように再編されるか、およその見通しは得ている。また鹿港は以前に見ており、先行研究もある。今回は同じ地域に分布しているそれ以外の街を見たかった。2日間で9街をつぶした。これから調査対象を絞る。

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台湾到着

2004年08月01日

JAAのEG283便(10:00名古屋発)で正午に台北着。脳ミソまで暑いです。

投稿者 aoao