エドワード・ベラミー『顧りみれば』

2005年06月16日

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僕は大学では都市計画を教える身。でも、自分の学生時代に都市計画の授業で魅力的なのはひとつも聞いたことがないので、最初は自分が授業をするにも憂鬱だった。たとえばなんでこの手法が採用されるのか、それがなかったら都市はどうなるのか(なりうるのか)、それが採用されたことへの反応として都市はどうなったのか(なりうるのか)、といったような生きた関係がちっともピンと来なかった。

だって、いつもこの時代にはこれが必要とされた、というところからはじまる。それで、今はこれが必要なんだから学べ、ということになるけど、ほんとにそれが必要なのかはよく分からない。

公共権力の介入(計画)について知りたければ、アノニマスな生成の力もあわせて知る必要がある。両者の拮抗の場を示すことが、都市計画という技術・制度あるいは知の発達を考える近道だ。

最近、これを読んだ。
エドワード・ベラミー、山本政喜訳『顧りみれば』岩波文庫 赤332-1、1953
(原著Edward Bellamy, Looking Backward 2000 - 1887, Routledge, London, 1888)

120年近く前の本。邦訳も50年前で、ほとんど論理的整合性だけをたよりに英語への復元が可能だと思えるほど(←ほんとに)、気まぐれや色気を排除した見事な直訳なので、ちょっと読みにくいけど、面白いよ。1887年に、催眠術の助けを借りて地下室で眠りについた不眠症の男が、火事で焼失した家とともに忘れ去られ、2000年にたまたまその地下室が掘り当てられたために生きたまま発見される。産業革命時代のボストンの資本家であった彼が113年の眠りを終えて目覚めたとき、アメリカは国家社会主義の世界だった。というわけで、資本主義の生成のエネルギーと、社会主義の計画のイデオロギーとが、彼のなかで拮抗するわけ。113年前の婚約者の曾孫にあたる女性が、いわば彼の引き裂かれた長い時間をつなぎ、溶かしてくれる唯一の存在としてクローズアップされるという、ロマンスのプロットも重ねられている。

誰でも知っているあのエベネザー・ハワードは、若気のいたりで渡米して農業に失敗し、シカゴに出て働いたときにこの本に出会って胸躍らせた。ハワードは、資本主義社会のなかに同居できる社会主義的な島としてのコンパクトな都市を構想し(『明日』1899)、それがイギリス都市計画の強い伝統として残る。ウィリアム・モリスもこの本を読んで感激したが、ベラミーの社会主義が中央管理の効率的な機械生産をベースとしたのに対置させて、『理想郷だより』(1890)を書いた。面白い。

ベラミーの描く2000年のアメリカでは、国家がすべての生産・分配機能を集約してしまうので、事実上、生成と介入という拮抗関係そのものが失われていることになっていて、その点で僕は面白くない。その矛盾を生きるのは眠りすぎて両方を見てしまった主人公だけなので、やっぱりロマンスなんですね。

ところでベラミーは面白いことを言っている。世に経済学らしいものはなく、「経済学なしでやっていゆこうとすることの経済的社会的結果の検討」しかないと。でも、都市計画の分野には、むしろ「都市計画なしでやってゆこうとすることの結果」への想像力が欠けていないか。

いっぽう、いま、都市の生成の力は極度に衰弱していて、それに照応するかたちで介入の力は姿の見えにくいものになっている。だけど、介入がなくなろうとしているのではなく、その形態を変えているだけ。「まちづくり」という言葉は、実態としては、そういう曖昧な関係を指す代名詞として使われる場合があまりに多い、と思う。

投稿者 aoao