熊から王へ
2004年08月28日
中沢新一『熊から王へ』カイエ・ソバージュ〈2〉 講談社選書メチエ 2002
2年前の冬に天竜川流域(奥三河)に伝わる「花祭り」という祭りを見ました。見たというか、何しろ煮えたぎった釜の周りを、夕方から翌朝までひたすら踊りながら回るという、ちょっと「花祭り」という名前からは想像もつかないようなクレイジーな祭りですので、要するに僕も踊り狂いました。
この本を読んで知ったんですが、このお祭り、折口信夫がすごく重要視していたようです。折口によると、フユ(冬)というのは、タマ(魂、霊、自然の力)を振って殖やす(フユ)季節なのだそうです。僕も、酒と踊りで揺れる宇宙のなかで、殖えたタマに触れていたんでしょう。そして、これが神話的思考というものの臨界点を示しているのだと、著者の中沢さんは書いています。折口と花祭り、ちょっと調べてみたくなりました。
北半球に伝わる色々な神話が紹介されているんですが、そのなかに、「熊の人間」という言葉が出てきます。動物も人間だったんですね。「熊の人間」と「ヒトの人間」は、セックスもするし、子供も生まれる。互いに妻や子供を守りながら、自分の兄弟たちの肉を贈りあう。そういうバランス(対称性)を保っていた。
そういう扱いを可能にしたのは人間の象徴能力。ところが同じ象徴能力(言語)が技術をも進歩させ、それがやがて熊を「熊という動物」に変えてしまいます。
自然の力に接近できるのは、シャーマンとか将軍とかですが、人間社会の調整者にすぎなった平時の首長が、同時にシャーマンや将軍の力を自らの手にしたとき、彼は王になり、人々はタミになる。自然は権力を失い、開発や保護の対象となる。こうしてクニ(国家)が生まれるので、国家というものはその誕生において野蛮をビルトインしてしまっている。北半球に伝わる様々な神話を頼りに、国家の生成を論じています。
フユの祭りは、シャーマンに限らず、普通の人間たちが自然のもつ力に最大に接近する瞬間。だから「熊から王へ」の臨界点が、いまも奥三河なんかには残っているということです。
