ものづくりの人類学
2004年06月20日
田口理恵『ものづくりの人類学 − インドネシア・スンバ島の布織る村の生活誌』風響社 2002
ようやく読了。詳細な民族誌的データを含む大部です。評判の本。
90年代は人類学(にかぎらないけど)にとっては自虐的な自己批判の時代で、今もそれは終わっていないんだろうけど、そういう自己批判をくぐり抜けてなおフィールドから人類学的な構築に向かう民族誌を発信するとしたら、こんな答え方がひとつあるんだろうなと思わせる本です。でも必ずしもスッキリしない。
僕なりの言葉で、僕なりのポイントを三つあげます。
1)モノ研究の占める場所について
ここに、布を織る村がひとつあるとします。これまでの文化人類学者は、そこでナイロンが使われていたり、デザインがキッチュだったりすると、「これは新しい」「これは違う」と考えてしまう。国際的な市場に売り出される布がつくられるのを知っていても、それを消して、儀礼に際して交換される布をクローズアップして、非歴史的な共同体像を描こうとします。これが実践的な局面に落とされると、オーセンティックな伝統技術を腑分けして保存したり再興したりするような運動になるかもしれません。他方、経済学者は手仕事や親族組織、儀礼などを近代化の阻害要因とみて、それが克服されるプロセスを考えます。その延長上には、政府による工業化政策があったりするでしょう。
いずれにしても、[伝統/手作り/親族・儀礼]と[近代/機械/資本]という二つのセットがこれまでは排他的な二分法において扱われてきたといえます。モノのやりとりという点では、文化人類学は贈与交換を、経済学は商品交換を見ます。たいてい、前者は非西欧世界を、後者は西欧世界をみる。反対に、後者が非西欧世界をみるときは、たとえば開発が地域社会にひきおこす矛盾を、資本による生産者搾取といったようにとりあげる。
もちろん、これはおかしいですね。世界に二種類の社会があり、また二種類の経済がある、ということになっちゃいますから。学問の棲み分けです。しかも互いに共犯的。遅かれ早かれ経済的には淘汰されるものを、文化的には救おうというわけですから。でも、これはおかしい。
そこで著者は技術的過程 technological process、あるいは技術的拘束 technological constraints (いずれもDaniell Miiller, 1984)という考え方を入れます。これは「技術をそれに「つながってくるもの」に沿って押さえていくという視点」(中岡哲郎『自動車が走った − 技術と日本人』1999)、「技術がシステムとして組織化されており、それが社会的に構築されるのと同時に、技術システムは社会を形づくる」(David Jeremy, 1998)という視点です。モノとそれをつくる技術が、どのように人の関係を組織するか。これをフィールドできっちり押さえていけば、むしろモノと技術を軸とする場に、親族や儀礼も、資本への転換も、どちらをもひきずり込んで同時に検証する(互いに検証しあわせる)ことができる、というわけです。この「技術的拘束」の視点を、著者は「中間項」と呼んでいます。
最近ネット上で読んだ、佐藤啓介「物質文化は何処?」という文章が参考になりそうです(佐藤氏はRes=モノ研究会の世話人)。ある人が、最近アメリカン・スタディーズでモノ研究(物質文化研究、歴史考古学)への傾斜がみられるのは、これまでの研究が文字や言説に依存しすぎていて、非識字層=周縁的な人々の文化をすくいあげられなかったことへの反省であるということを書いているけど、モノ研究をそんな狭苦しいところに位置づけてもらっては困る、と佐藤氏は言ってます。だって、庶民が使ったのと同じモノをインテリも使ったというようなことはいっぱいあるだろうから。その意味でモノは偏在するし、動くし、中間項的なんですね。
2)時間(の堆積)の問題について
この本は、しかし、中間項の役回りにはとどまっていなくて、むしろひとつの村にまつわる、可能なかぎり全体的な空間と時間の広がりにわたって、社会的諸関係の「総体」を描き出そうとしているところに大きな特徴があります。
空間的には布というモノが移動する仕方とその範囲をすべて押さえようとしているので、たとえばオランダの美術館とか日本の家庭とかがスンバ島の一集落とつながってきます。時間的には調査対象の村が形成された19世紀(オランダ時代)から、日本軍政時代、戦後のスカルノ体制からスハルト体制を経て1990年代にいたるまでの集落と社会の変遷史が、ここまで可能なのかと思われるほど丁寧に復元されている。以下では時間の方に注目したいと思います。
著者の考え方では、「現在」とは社会的関係がつねに変化してきた歴史的過程のたんなる一断面にすぎない。あるいは変化の「総体」が堆積したものと、言い換えることができるでしょう。1)のような議論からすれば、ある意味では当然かもしれません。過去を理想化するのも、また形式主義的な発展図式もダメだと言っているんですから。(少なくとも建前としては)著者はとにかく変化の「総体」を書き留めることができ、そこに[伝統/手作り/親族・儀礼]、[近代/機械/資本]といったものがどのような関係を結んでいるのかを読みとろうとした、と表現すべきなのかもしれません。でも、「総体」って何なのでしょう。
たとえば町並み保存のことを考えるときも同様の問題に突き当たります。普通には、妻籠の町並みはちゃんとした「伝統」で、新宿副都心はすっかり「近代」だと思われていて、その中間に、古いものも新しいものも色々まだらに残っているような町がある。こういう町では、新しいものを無視して町並み保存を考えてもナンセンスだし、かといって過去はやがて淘汰されるものだと決めてしまうこともできないと悩んでいるところもあります。そこで、町の「固有の歴史」を定義するひとつの戦略は、そのまだらな残り方に居直ることです。実際、近年はそういう町並み論も出てきています。江戸から明治・大正・昭和、さらには高度成長から昨日までの時間がすべて降り積もって堆積した、その「総体」こそが固有なのだと。そして翻れば、エリート的町並みだって、新宿副都心だって、結局は同じなのだということも言える。実際、江戸時代ばっかの町並みなんてありえません。
ここまでたどり着いた時、一瞬の開放感とともに、何だか逆に捉えどころがなくなった感じ、足掛かりが失われてどこにいるのか分からないような感じもしてきます。次なる問いが不可能になるようなイヤな感じと言ってもいいかもしれない。どこかに、踏みとどまるべき場所が必要なのではないかとも思えます。
3)インボリューション?
もうひとつ考えさせられたのは、最終章のタイトルでもある「原始機のパラドクス」についてです。スンバ島の布織りは、国際的需要の拡大を背景とした政府の振興政策のなかで確実に活発化し、増産されているのに、その機械は(技術段階論的には)原始的なもので昔からほとんど変わっていない。これはどういうことなのか、という問題です。
著者によると、市場経済の浸透によって、かつての「大きな家」が解体されて核家族の「小さな家」(近代的住民行政の扱う「世帯」、電気代を支払う「世帯」)が増えている。多くの世帯が布生産を経営し、必要に応じて労働力を細分化したり交換しあったり、集落外の人々も動員したりして、工程と人的配備を多様にアレンジすることで、増大する仕事量に対応している。これを著者は擬似的な親族関係の(状況論的な)再構築とみています。つまり、あいかわらずの技術を活発に駆動させられるような人的組織を構築することで、市場経済の浸透に何とか対応できてしまっており、それが(彼らにとって資源でもある)伝統的な親族関係の再生産というかたちをとっている、ということですね。布の販売も、集落から国際市場まで、個々人の「状況的で一過的な関係の堆積とその関係連鎖の広がり」によって支えられていると言います。
思いおこすのは、クリフォード・ギアツ『インボリューション − 内に向かう発展』(原著1963年、NTT出版、2001年が入手可能)です。ジャワ社会を題材にした話で、批判も多いんですが、乱暴にいえば、水田耕作は社会を根本的に革新しなくても労働人口を大幅に増やしていける特質をもっている、という議論。労働力を突っ込むほど生産力が上げられるし、一方で相互扶助の慣行が成立して、労働機会や分け前の細分化を許容するので、たくさんの人を養える。焼畑農業では人口は増やせないのに、水田耕作では増やせるのはなぜか、という問題にギアツは答えているわけで、環境と経済活動の関係をめぐる議論として今でも新鮮さを失っていません。
これを第三世界の都市社会にあてはめる議論もあって、経済の根本的な仕組みが変わらないまま都市人口がどこまでも膨らんでしまう現象を分析するモデルとされています(アーバン・インボリューション)。そこでは、親族と同郷のネットワークを再組織しながら、その線をたどって農村から都市へと人が移動していき、都市の側では仕事と分け前を極限まで細分化してこれを受け入れるのです。貧困の共有ですね。日本では赤信号でとまった車にガムを売っても生きていけないのに、なぜジャカルタでは可能なのかという問題です。
『ものづくりの人類学』を読んで、どこか似ているなと思いました。日本では伝統産業は死に絶えようとしているのに、スンバ島ではなぜ自己再生産的に生き続けられるのか。スンバの布作りでは、需要の増大や市場経済の浸透を背景に、技術水準は変えないで、伝統的な親族関係を細分化し、生産ラインの数(世帯数)を増やし、各ラインの各工程に細分化された労働を割り振り直している。その振り直しにおいて、伝統的な親族関係がその都度再生産されており、いろいろに組み替えているので重層的な集合関係をかたちづくるに至っている。市場経済の浸透は伝統的社会を崩壊させるのではなく、技術の「停滞」をテコにして、むしろ重層的に再生産させるような力として働いている、というわけです。逆に、そうした社会関係の再生産で対応できているから、技術そのものの革新は行わずに済んでいるともいえる。面白いですね。
でも、もし機械をより近代的なものへ置き換えてしまったら何がおこるんでしょうか。なぜ政府はそれをしないのか? なぜ資本は? やはり疑問は残ります。
