鈴木家は すごい…!
2006年02月25日

2006年2月25日(土)
ものけんメンバー、鈴木さんの家で”おこしもの”作りをしました★☆
本日 プチ取材のお方は鈴木すゞ代さん。 鈴木さんのおばあちゃんです。
おこしものとは、桃の節句の風物詩、
愛知県でも尾張・三河のごく一部の地方中心に伝わる郷土菓子です。
鈴木家では毎年、この時期になるとみんなで集まって作るそうです(^^
今日は、ものけん7人+いとこの家族+そのお友達、なんと19人が集まりました!
おばあちゃんが米粉を練ってもちもちに♪
桃やだるま、富士さんや鶴の型につめて♪
ポコン♪とおこす おこしもの~♪
ものけんが「雪だるま」に出会った!
2006年02月09日
「ものけん、ものづくり研究会」って何だ!?なんで「ものけん」をやってるんや!?
去年秋から、この悩みを抱えてきた「ものけん」は、研究会としての大先輩である「日本雪だるまの会」の事務局長である伊東寛さんを訪ねた。
先輩を訪ねる取材としては2回目のものけん。
”どうして日本雪だるまの会はこのような活動をしているのか?何のために…?”
これからのものけんの参考として、話を伺った。
「日本雪だるまの会」とは、郷土玩具をこよなく愛し、より多くの人に知ってもらおうと静岡県を中心に活動している団体である。(い)
研究者としてのせんぱい!
2006年02月04日
2006.02.03 岡崎地方史研究会会長、長坂一昭さんを取材させていただいた。
長坂さんは現在76歳。教師生活の傍らに地元岡崎にまつわる花火、石造物や石工の研究をし、退職した今も続けておられる。その成果を、「市民に伝えたい」という思いから東海愛知新聞に連載をしており、その情報はとても細やかで詳しい。研究活動にかける時間と労力は大変なものに違いないが、はたして長坂さんを動かす力はどこから生まれてくるのだろうか。
研究者としての先輩に来期のものけん活動の参考に、目的や調査方法といった姿勢を伺わせていただいた。
一番ディープな岡崎本!
2006年01月25日
今日は、鈴木、折目、近藤、松澤の4人でリバーシブル編集室へ行って参りました!

リバーシブルとは「一番ディープな岡崎本リバ!」というキャッチフレーズを掲げ、岡崎を中心に毎月1万5千部発行しているテイクフリー情報誌です。そのコンセプトは、「岡崎を深く知ろう」。
畔柳提灯屋さんへ行って参りました
2005年11月28日
2005.11.24
岡崎市伊賀町にある畔柳提灯屋さんに取材させていただきました。今回主に話を伺ったのは三代目ご主人の久太郎さんです。創業から百年以上ということもあり、この提灯屋には宣伝をしなくても注文がくるそうです。そしてなんと先代のご主人の頃には宮内庁からの受注もあったそうです!何十という数の提灯を作ったそうで、菊の紋を描くのが一苦労だったとか。そんな歴史と伝統の畔柳提灯屋さんですが、みなさんとてもいい方で、提灯を張りながら、作る工程を教えてくださいました。細かく分けていくと10も工程があり、それを全て畔柳さん一家で作っています。衝撃だったのは現在では殆どの提灯が、竹ひごではなく、針金に紙を巻いたもので作られていたことです。竹を削る人が少なく、コストもかかってしまうそうです。材料の多くは提灯の名産地美濃から仕入れており、和紙も勿論美濃和紙で、提灯の種類によって紙の厚さを使い分けています。職人ですねぇ。思いがけない所で自分の作品を目にしても、自分のものは判るそうです。同じ江戸文字(勘亭流)でも違うんだとか。職人ですねぇ。(かとう)
人間、1年1年変わらなければならない・・・足助乾漆の芸術家。
2005年11月20日
2005.11.17.Thu. 足助乾漆・高山兼男(兼山)氏
取材させていただいた高山さんの言葉と行動は、結びついておりました。それは、目に見える形で。
「足助の漆を自分でとって使ったら、よそにない良いものができる」
という藤井達吉さんの言葉は、高山さんは何年経っても忘れませんでした。そして、独自の足助乾漆で茶碗作りをはじめたのです。
型をもとに、お茶碗の形を作り出す。漆をかさね、また研ぎを作業を何度も繰り返した後、仕上げの研ぎの瞬間、一つだけしかない色合いがお茶碗に見事に研ぎ出されます。それは高山さんのお宅で見せていただいたビデオに映っていた工程の映像にあり、奥にある色から表面に近い色が一つの面にあらわれてくる仕上げの研ぎというのは惹きつけられるものでした。
日々過ごしている中で、直接人から聞くことや本のなかで出会ったりして、印象に残る言葉や胸にひびく言葉というのは、みなさんきっと感じていると思います。でも、その言葉たちにインスパイアを受けたとしても、私はそれを行動にうつせないで過ぎていってしまいます。しかし今回、高山さんとお会いして、言葉をちゃんと受け取って、凄さや力が感じられました。(おくむら)
風が吹けばなんとやら。
2005年08月28日
こんにちは、今回のものけんブログは出張版。しかも、日本国内ではなく、海の外は台湾からです。書き手はいつもの青井に変わって、不肖こんどうが勤めさせていただきます。どうぞ、よろしく。
今回、台湾で最後の一軒になってしまった”桶屋”さんに行ってきた。
昔、台湾では数多く桶屋が軒を連ねせっせと仕事をして桶をつくっていたが、現在はプラスチック製品に市場を奪われるなど、桶屋は時代の流れの中に姿を消していった。そして、台湾全土でたった一軒だけが生き残った。今回訪れた林田桶店だ。
話を聞いたのは、桶職人の林相林さん(76)。名前の中に木が5つもある、お茶目なおじいちゃん。台湾は1895〜1945年の約50年のあいだ日本の植民地であった。それで、植民地時代に学校で日本語を学び、そして日本人の桶職人の元に修行に行っていたこともあり、相林さんの日本語は達者であった。僕らは桶屋の店先で、昔の匂いがする日本語でじっくり話を聞いた。
宮殿と書いて「くうでん」と読む。
2005年07月21日
6月11日に行った 三河仏壇の取材に関連して、木地師さんと宮殿師さんを訪ねた。今回は「平林佛具」(岡崎市渡町)の宮殿師さんお2人への取材報告を。
写真は新品の製作ではなくメンテナンス。尾張・三河の仏壇屋は他地域に比べて、メンテナンスの仕事が発達しているようで、非常に興味深く拝見した。メンテナンスはたんなるマニュアルどおりの修理ではありえない。年月を経た仏壇に、職人の技術と知識をぶつけて、その仏壇に刻まれた過去を読み取り、謎解きのパズルを完成させていく、とても知的なプロセスなのだ。もちろん、建築だって何だって、メンテナンス一般がそうなのである。
前に書いたように、8種に分かれた職人の分業と統合によって仏壇はできているので、販売店が受けたメンテナンスの仕事も分解されて、宮殿師さんのところには宮殿部分だけが持ち込まれる。もともと仏壇は分解可能なようにつくられているが、それも完全に一個一個の部品にまで解体するのではない。他工程との関連を意識しつつ、分解可能な単位(まとまり)が設定されているようだ。宮殿師は宮殿部分を分解して、欠損や変形を直し、再び組み直せるようにした上で、塗師(漆を塗る職人)や箔押師(金箔を押す職人)に引き渡し、戻ってきたものを組み立てる。写真はそこまで分解した状態を示すのだが、それは、数十年前の職人たちがこの仏壇をつくったプロセスを探りながらトレースすることに他ならない。この分解されたユニットが、過去の職人たちの連携のありようを物語るのだ。
取材12 幸田 手筒花火と・・・
2005年06月24日
いよいよ第12回=最終回。
芦谷煙火愛好会の代表、山本さんをたずねる。
僕(青井)も豊川進雄神社の大祭で町内から手筒を出すので、縄巻きまで自分たちでやっている。これは意外に力を使うのだが、山本さんは自ら自動車の廃材などを使って手筒の縄巻き機を制作してしまった。ほんとにユニークな、どこかしらあやしげな魅力をもつ山本さん。還暦とは思えぬ若さで、建設業から農業、それに水質浄化剤や○×□△の販売、それに手筒花火まで、何でもやっておられる超人だ。
百々貯木場と明治用水舟通閘門
2005年06月18日
ものけんメンバーで岡崎匠の会による万博の展示・催事の再現「地球市民村INおかざき」をたずねる。会場は長石醸造さんが200年以上の歴史をもつ酒蔵を地域に開放している長誉館。一度ちゃんとお話をうかがわないとね。
午後、旧平井村百々(百々=どうど、現豊田市百々町)に残る貯木場跡へ。思った以上の迫力。

取材11 知立は三河仏壇
2005年06月11日

漆塗りを主体とする「塗り仏壇」に対し、尾張・三河の仏壇は金箔がドミナントな「金仏壇」。主として真宗の「浄土」の表現ですが、とっても派手です。尾張・三河の仏壇は技術的にも造形的にも同系統。それでも、三河のものは「三河仏壇」と呼ばれて区別される。
巨大消費地・名古屋に対して、三河が基本的には農業をベースとする生産の地であることは、われわれの1年足らずの取材活動のなかでもはっきりしてきた。そして、このことが三河仏壇の特質に反映している。愛知屋総本店のご主人の説明はとても合理的で、建築史の教科書を読んでいるかのような明晰さでした。
つづきがあります取材10 安城 凧はとても構造的です。
2005年05月27日
桜井凧。
10:30に安城市歴史博物館をたずね、桜井凧の展示を担当された学芸員の斉藤さんにお話をうかがい、凧の世界の奥深さにうなる。午後は素麺づくりの取材(別記事参照)をはさみ、15:00より桜井凧保存会のみなさんにお集りいただいた。楽しさとプライドがひしひしと伝わる。わがままを言って、矢作川の河川敷に立ち、広い広い空に桜井凧(福助)を揚げた。

写真は保存会で技術指導にあたる下平さん。凧づくりの専門職だった生前の岩瀬仙松さんについて学んだことがある。河川敷ではわれわれに凧揚げの指導もしてくださいました。
取材10 安城その2 一集落でしかつくられてこなかった麺。
2本立て安城取材の2つめは、手延べの和泉そうめん。
独特の立地環境による、高い湿気を含んだ夏の風に干すことで、「半生」のやわらかい素麺をつくってきた地域がある。その伝統を受け継ぐ麺店のひとつ、たつみ麺店さんを訪ねた(昼の12:30)。
半生素麺はもともとはこの地域だけだというので、どの地域ですかと聞くと、「まあ、このへんだけです」・・・、このへんって、どのへんですかと重ねて聞けば、「まあ、この町内です」・・・。町内ということは、昔でいえば集落でしょうね。ええっ、その風の条件はそんなにも微妙なものなのですか。

微妙といえばこれも意外に面白い。この写真で、実は麺をかけている両端の竹棒のうち、上の方は正確にいえば固定されていない。天日に干され、縮もうとする麺の力と、それを押し戻そうとするバネの力が釣り合っているのである。環境と麺が作用しあうダイナミックな系のなかで、経験が指し示す釣り合い点がその都度求められ、動いていく。
つづきがあります取材09 刈谷 カキツバタを見守りつづけた人
2005年05月20日
日本に3カ所しかない、天然記念物に指定されたカキツバタ群落を取材。
半世紀、ということはほとんど一生をかけてこの群落を研究し、見守り続けて来た元高校教諭の杉浦正巳先生にお話をうかがう。1970年におこった宅地開発計画の反対運動をたたかい、背後の丘を(国・県の補助を得て)刈谷市が買収してひとまとまりの環境として保護するところまでこぎつけた。今日は今年一番の見頃とのことで、89才の杉浦先生も大活躍。熱のこもった「授業」を拝聴しました。

取材08 “石都” 岡崎 〜 石屋渡世から、長七たたきまで。
2005年04月29日
岡崎石工団地へ。もとは旧城下、すなわち岡崎中心部の花崗町、通称「石屋町」にずらりと軒を連ねていた石屋さんのうち進取の気質にあふれた68軒が、1962年に郊外の田んぼのどまんなかに引っ越したのがはじまり。

「石屋町といえば泣く子も黙った」。石屋さんは、マスクもろくにせず毎日のように石の粉塵を吸い込み、「珪肺」(けいはい)という職業病にかかる人が多かった。珪肺は治らない。仲間たちの間では、45まで生きればいい、50を過ぎて生きていれば腕が悪いから仕事がなかったのだと陰口をたたかれるほど、石屋は短命だった。だからみな気性が荒く、入れ墨をして夜通し酒をあおるといった風で、一本気だが気が短く、人相の悪い人ばかりで怖がられた。弟子入りした少年たちも兄弟子から定板でなぐられた。通りを歩けば右からも左からもこっぱ(石片)が飛び交い、粉塵が舞う。危なくて歩けないし、とても洗濯物など干せない。トラックが止まれば積み降ろしの間は通行を止めてしまう。
泣く子がいても、「石屋に入れるぞ」といえば泣きやんだという話もうなづける。だって怖いよ。しかし、そういう状態から脱却し、機械化したり工場規模を拡大するために、旧城下の職住近接の町から、郊外へと転出する。いち早い体質改善が、その後の飛ぶ鳥を落とす勢いの成長の基礎となった。
つづきがあります取材07 額田
2005年04月14日
額田町千万町(ぜまんじょ)。茅葺き民家を改修した村おこしの拠点施設(「茅葺屋敷」と呼ばれている)を訪ねました。たまたま昭和3年生れの“たけおさん”に出会えて、面白い話をききました。千万町の茅葺きは、もとから関係のある作手村の茅葺職人に加え、戦後は「甲州の屋根屋」と称する集団(親方以下、4〜5人くらい)が入り込むようになったとか。甲州ですから山梨県ですね。一冬にいくつものの現場を回って旅をするのですが、特殊な技術を武器に、農閑期の収入をねらって移動する集団という意味では、日本酒の蔵人集団(親方が杜氏)に似てますね。茅葺も、出身地によって少しずつ技術が違うようで、それをセールスポイントにして市場を拡大しようとしたらしい。
取材06 幡豆 製網と醸造
2005年03月10日
幡豆町は、取材先がひとつに絞りきれず、木下製網株式会社さんと、山崎合資会社さんの二カ所を訪ねました。木下さんは漁網をはじめとする網(ネット)を、また山崎さんは日本酒(銘柄=尊皇ほか)をつくっていらっしゃいます。
写真は山崎さんの酒蔵にて。社員であり杜氏でもある山崎氏が麹を手に解説してくださいます。杜氏といえば、かつては山間の雪国の農民が冬期に全国の酒蔵へ出稼ぎに行ったという、あの蔵人集団の長です。ここ幡豆の山崎さんの場合、「越後杜氏」といって、新潟県から蔵人集団が来ていたのですが、後継者難・高齢化のため、彼らに依存する体制は早晩崩壊するだろうことは見えており、平成に入った頃からこの問題に直面したそうです。そこで白羽の矢が立ったのが営業部長だった山崎氏。いまはどこでも自前の社員として杜氏をはじめとする蔵人を養成するのだそうです。
取材05 吉良は海苔養殖。
2005年02月18日
といいながら、写真は塩田(吉良町歴史民俗資料館)。あの赤穂浪士の憎まれ役で有名な吉良上野介も地元では名君。基本的には農業に適さないこの土地で、塩田を中心とする地域開発を行ったからです。
今回の取材先は、吉田漁業協同組合。三河湾での海苔養殖がテーマでした。海苔は植物で、その種をホタテなどの貝の真珠層に入れてやると育つのだそうです。「ホタテ?!」ってな感じで僕らはもう海苔ワールドから突き放されてしまい、どうも実感が持てませんでしたが、あらためて現場を取材します。
しかし、そのあと海岸を歩いていて思わぬ掘り出し物が・・・。
取材04 西尾・・・抹茶ってすごいんですね。
2005年02月01日
この何の変哲もない石臼(いしうす)こそが、抹茶生産を支える技術の中心なのです!
たずねたのは明治21年創業のあいやさん。西尾市は抹茶生産量で全国60%のシェアを有する、知られざるナンバーワンなのですが、実はあいやさんだけで全国40%のシェアを誇ります。その秘密のひとつが石臼。茶葉を2〜20ミクロンの微粒子に正確に挽く技術。いまだに石臼を凌駕する機械などはなく、岡崎産の御影石に溝を切るのですが、その製作とメンテナンスは、機械をこえた“職人”の領域なのだといいます。あいやさんは、その“職人”を3人かかえ、しかも自ら養成しています(同水準の技術の保有者は全国に10人はいないだろうと社長はいっていました)。抹茶製造の「定数」を自認する社長、迫力ありました。
取材03 碧南の「おぼこ」
2004年12月16日
碧南市で土人形をつくっておられる高山八郎さん(1922生)にお話をうかがいました。
土人形は、農家が農閑期につくったもので、昔はどこにでもありました。土人形のことを三州では「おぼこ」(もとは子供の意)といい、これをつくる家を「おぼこ屋」といいます。型を用いて成形したものを窯で焼き、絵付けをして完成。
興味深かったのは、型のもとになる原型(人形のかたち)を、地域の鬼板師(鬼瓦をつくる職人)につくってもらうケースが昔からあるということです。鬼板師は、熟練を要する高度に専門化された職人(一種の彫刻家)で、大きな寺院の造営に参画して名をあげる者もあったようですが、そうした職人の有名性を、無名のおぼこ屋=農民たちが借りる関係があったということになります。たしかに、瓦も土管も土人形も、同じ三河の土でかたちをこしらえ、窯で焼成するという意味では同じ仲間ですが、そこに、ある種の階層性や、その階層間を橋渡しする関係のあったことはとても面白いように思います。
取材02' 瓦産業のぶ厚さに仰天
2004年11月12日
高浜2日目は、桟瓦や平板瓦を機械化されたラインで大量生産している工場。

瓦の需要が減り、全国の瓦屋さんが淘汰されていくなかで、三州だけがシェアを上げ(現在60%)、生産量をおおむね維持している背景には、多岐にわたる技術開発や広報活動の努力があります。瓦は性能表示にのっていない、法制度にのっていない、ならばのせればいい。施工業者が工法を知らない、そもそも設計者が瓦を知らない、ならば教えればいい。若い人にアピールする建築家と連携することも検討されています。まさか瓦工業の組合で伊東豊雄の名前を耳にするとは。
取材02 高浜・・・「瓦」です!
2004年11月09日
もの研(仮)の取材第2弾。前回の佐久島につづき、今回は高浜市です。

高浜は三州瓦の代表的生産地。瓦と一口に言っても色々な形式と製法がありますが、鬼瓦をつくる親方のことを「鬼板師」あるいは「鬼師」と言います。今日は2人の「鬼師」を訪ねました。写真は午後にたずねた「鬼源」の神谷さんの工場。明治30年代の建物です。昔はどこもこういう軒の低い、棟の長い木造の工場で仕事をしたそうです。これがいくつも並んだ景観が少し前まで見られたはずです。
取材01' 船大工さんと漁師さん
2004年10月22日
佐久島へ2回目の取材に行ってきました。
今日は元船大工の鈴木さんと、漁師の加藤さん。この企画、やっぱり面白い。はまります。
取材01 佐久島へ・・・いよいよはじまりました。
2004年10月07日
ものづくり研究会の取材活動がいよいよスタートしました。第一回は一色町の佐久島。
「万屋(よろずや)家業」を自認する大工さん、それにどう考えてもインテリの元郵便屋さんに、とても面白いお話を聞かせていただきました。お世話になった方々、とくに町役場の山崎さん、本当にありがとうございました。

