風が吹けばなんとやら。

2005年08月28日

category= しゅざい

hayashida.jpg こんにちは、今回のものけんブログは出張版。しかも、日本国内ではなく、海の外は台湾からです。書き手はいつもの青井に変わって、不肖こんどうが勤めさせていただきます。どうぞ、よろしく。

 今回、台湾で最後の一軒になってしまった”桶屋”さんに行ってきた。
 昔、台湾では数多く桶屋が軒を連ねせっせと仕事をして桶をつくっていたが、現在はプラスチック製品に市場を奪われるなど、桶屋は時代の流れの中に姿を消していった。そして、台湾全土でたった一軒だけが生き残った。今回訪れた林田桶店だ。
 話を聞いたのは、桶職人の林相林さん(76)。名前の中に木が5つもある、お茶目なおじいちゃん。台湾は1895〜1945年の約50年のあいだ日本の植民地であった。それで、植民地時代に学校で日本語を学び、そして日本人の桶職人の元に修行に行っていたこともあり、相林さんの日本語は達者であった。僕らは桶屋の店先で、昔の匂いがする日本語でじっくり話を聞いた。

hayashida2.jpg 林田桶店の歴史である。
 開業は昭和3年。相林さんの父親の林新居さんが、現在の中山路という台北の主要道路の一角に店を構えた。新居さんは、あちこちの桶屋を点々としていたが、結婚を機に借家ではあったが自分の店を持った。当時は日本の植民地時代のまっただ中で、林田桶店の周りは日本人街であった。そのためお客のほとんどは日本人で、店も日本人目当てに開業した。それで日本風に林田桶店と名付けた。翌昭和4年、現在の当主である相林さんが生まれた。産声を上げたのは、新居さんのつくった桶の中であった(たぶんだけど)。
 相林さんはすくすく成長していき、やがて小学校を卒業する時期になった。職人の世界では、他人の釜の飯を食わないと一人前にはならないというのが当たり前であり、相林さんは父親の命令で修行に出された。林相林12才、男一匹職人の道を歩むこととなった。
 修業先は、鳥居千代松という日本人の桶職人の所で、たいへん厳しい人であった。鳥居さんは明治22年生まれ。16才の時、桶職人になるため修行に出て、明治42年、20才の頃に台湾に来た。大正時代に入り、基隆という港町に自らの店を構えて桶づくりに励んだ。そこに、昭和17年に小学校を卒業したばかりの相林さんが弟子入りしてきた。
 明治の職人は頑固で、すぐにバカヤローを使う気性の激しい人種だったようで、相林さんもよく怒鳴られた。修業時代は住み込みで親方や他の弟子たちと一緒に生活をして仕事のことだけではなく、職人としての生き方も学んでいった。
 修行生活も2年ほど経った昭和19年の第二次世界大戦の末期の頃、戦火が激化してゆき、相林さんは疎開を余儀なくされた。翌昭和20年、日本の敗戦により戦争は終結し、台湾は日本の植民地ではなくなった。そして、台湾に住んでいた日本人は日本本土に戻ることを余儀なくされ、当然鳥居さんもその中に含まれていた。日本人の職人に弟子入りするという相林さんの修行時代は、戦争の中にはじまり、戦争の中に消えてゆくこととなった。後から聞いた話だそうだが、鳥居さんの所に弟子入りに来て、逃げ出さずに途中で終わってしまったが最後まで修行を続けたのは、後にも先にも相林さんただ一人だそうだ。嫌になるくらい厳しい修業時代だったと言いながら、最後まで続けたことを今でも誇りにしているようだった。
 時代は流れる。相林さんが店を引き継ぎ、父親の新居さんが亡くなる。そして、プラスチック製品の桶が出始めて周りの桶屋が姿を消してゆく中、林田桶店のそして台湾の桶屋の火を消したくないという思いで、桶屋が生きにくくなってもしぶとく昔と変わらぬ製法で桶をつくり続けていった。しかし、現在は体も弱ってしまい重労働である桶づくりができなくなり、そして跡を継ぐ人もいない状況である。けれど相林さんは、今でも毎日店先に出てつくってある桶を並べ、昔とずいぶん変わってしまった通りを眺めながら、時折来るお客さんの相手をして一日を過ごしている。しかし、現在も自分のあとにも桶屋を続けてくれる人が居てほしいと強く思っていて、頭の中では弟子をとる計画もあるようだ。僕も是非ともこの桶屋を続けていって欲しいと思う。はたして「風が吹けば桶屋が儲かる」という日はまた来るのだろうか。(ん、僕が弟子になればいいのか!?)

投稿者 kondo | コメント (0)
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